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2012年2月27日 (月)

「札幌市電唱歌」 (1)【西4丁目→西15丁目】

まず、1枚の写真から。

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ここは僕の家の前です。

線路の上には、黄色い木造の電車。それを歩道から見ている、帽子を被った子供が僕です。昭和52年(1977年)の札幌市営交通50周年を祝って、開業当時の貴重な車両が走行したときの写真です。

この木造電車が走った1週間、僕は毎日4回ずつ欠かさずに見送りました。やがて運転士さんが僕のことを覚えてくれて、僕の前で一時停止してくれるように。 最終日には、僕が描いた電車の絵を、運転士さんが電車を停めて受け取ってくださいました。電車だけではなく、道路を走る車も停まってくれました・・・。


あれから35年。

電車が大好きな5歳児は、電車が大好きな39歳「ブラサトル」になりました。

■いま、札幌市電が熱い。 
その昔、札幌市内を縦横無尽に軌道が敷かれ、市内交通の花形だった市電も、地下鉄開通と交代するように縮小された結果、わずか8kmあまりの1系統を残す のみ。
Photo

少し前までは「時代遅れの乗り物」といわれ、クルマ社会からは邪魔者扱いされ、全面廃止さえ検討されたこともありました。
M101

それが最近になって、環境や人へのやさしさから市電が見直され、ついに、路線延伸と新車両の導入が決定!まずは「欠輪環状線」だった現行路線を2〜3年後にループ化。昭和48年(1973年)に廃止された駅前通の市電軌道が、40年ぶりに復活することになりました。

いま、札幌で最も熱い乗り物といえば「市電」です。

僕はこの感激を何とかして形にしたいと一念発起。そこで、明治時代に作られた日本一長い歌、「♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」の出だしで有名な「鉄道唱歌」(このブログでもおなじみですね!)になぞらえ、札幌市電沿線の風景や歴史をまとめた
「札幌市電唱歌」を作りました。

現在、市電が走るのは、札幌でも旧市街中の旧市街といわれるエリア。札幌の成り立ちが凝縮されています。古いものと新しいものとが混在する不思議な風景の中を、「札幌市電唱歌」と一緒に散歩に出かけましょう。

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和田哲 作「札幌市電唱歌」 

1 【西4丁目】 
4プラ前の十字街
雨音消えて 雪となり
西四丁目の電停で
乗り込む電車の暖かさ


■4丁目十字街 
市電の起点があるのは、4丁目プラザ、三越、パルコ、日之出ビルに囲まれたスクランブル交差点。
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メインストリート同士がクロスする、札幌で最も華やかな交差点です。昔は市電の軌道もここで交差していました。札幌の交差点には基本的に名前がないのですが、ここは古くから「十字街」と呼ばれていたそうです。最近はあまり聞きませんね。


2 【西4丁目】 
札幌開府(かいふ)の その初め
大友堀(おおどもぼり)と直交し
原野に引かれし この道ぞ
都市の基(もとい)と なりにけれ


■大友堀(創成川)と銭函道(南1条通) 
電車は、南1条通を西に向かいます。この道、現在は国道でも道道でもありませんが、札幌の建設が始まったころは、大動脈とも言えるとても重要な道路だったのです。
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江戸時代の終わり、幕府の役人として現在の東区に入植した大友亀太郎は、用水路「大友堀」を掘削しました。これが札幌に最初に引かれた南北方向の直線であり、後に創成川となりました。
0


明治2年(1869年)に開拓判官として札幌の原野に入った島義勇は、この大友堀を札幌の都市計画の基準としました。銭函への曲がりくねった街道を整備、 札幌付近を東西の直線道路とし、大友堀と「直角」に交差させました。それが現在の南1条通の始まりです。そして、その直角交差点=創成橋こそが、札幌の 「碁盤の目」の最初の「一目」となったのです。
1


3 【西4丁目】 
北に横たう 大通
ライラック咲く 春の午後
ビールに酔うは 夏の夜
雪の城建つ 冬の朝


■大通公園 
札幌にあって、日本の他都市にないもの、それが大通公園です。「広場」が都市の中心になっているのは、ヨーロッパの都市に似ていますよね。
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そもそもは、町人地(南側)の火事が官庁(北側)に延焼しないようにするための「火防線」として設置された、前代未聞の50間幅の道路でした。「分断」のために作られた場所が、いま人々の「交流の場」になっているというのは面白いことです。


4 【西8丁目】 
レトロとモダンが入り交じる
西八丁目を過ぎ行けば
サンキチさんと人の呼ぶ
三吉神社は右にあり


■かむほどに味が出る界隈 
4丁目から8丁目は、古い建物と新しい建物、デジタルとアナログ、カルチャーとサブカルチャー(?)が同じ場所で仲良くしているような、不思議な味わいの街です。


東急ハンズの2軒隣、築50年の古いビル。アート系のさまざまな人が集う活動拠点「OYOYO まち×アートセンターさっぽろ」では、僕もたくさんの人と出会うことができました。ほかに、古本とビールのお店(!)もあります。
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市電に乗る人ならきっと誰もが知る「人形屋佐吉」。

いつも閉まっている印象があるのですが、油断すると、たまに開いています。
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ところどころに残る「昭和」。
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「声」「声」「声」・・・の看板でおなじみの純喫茶「声」は、映画「探偵はBARにいる」のロケにも使われました。雰囲気ありますね!
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■サンキチさんが晴れなら札幌神社は雨 
西8丁目の電停からほど近い「三吉神社」。正しくは「ミヨシジンジャ」という名なのですが、市民は親しみを込めて「サンキチさん」と呼びます。
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5月15日が例大祭。境内にびっしりと露店が並びます。また、「サンキチさんが晴れなら札幌神社(北海道神宮)は雨」といわれ、ちょうど1ヶ月後の北海道神宮例大祭(札幌まつり)と「天候が真逆になる」というジンクスが、札幌っ子の間では昔から有名です。


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5 【中央区役所前】
 
円柱型のホテル建つ
区役所前からほど近く
ミュンヘン市との友情を
伝えるドイツのマイバウム


■マイバウム 
マイバウム(maibaum)は、ドイツ語で「5月の木」という意味で、高い木にさまざまな飾りを付けたもの。ドイツでは5月の祭りにマイバウムを飾り、その周りで歌や踊りを楽しむ慣わしがあります。


大通公園(11丁目)には、高さ25mの大きなマイバウムのモニュメントがあります。
Photo_11
これは、オリンピックとビールが縁で姉妹都市になったミュンヘン市から寄贈されたもの。昭和51年(1976年)に設置され、古くなったため平成12年(2000年)に再建されました。


■現存する札幌最古の鉄筋コンクリート建築 
西13丁目でひときわ存在感を醸し出すのが、三誠ビル。
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大正13年(1924年)に建てられた、現存する札幌最古の鉄筋コンクリートの事務所ビルです。シンメトリーのデザインと、窓周りの細かい装飾が、重厚な雰囲気を醸し出しています。元々は旧薮商事の事務所でした。1階にはカフェ、2階にはゆっ たりできる古本屋さんが入居しています。


■ショッピング一条 
この建物の風格に、まずしびれます。
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この日、建物内はたまたまお休みでしたが、ちゃんと営業しています。ここはいわゆる「市場」。建物内部には、個人商店が並んでいます。スーパーマーケット が普及する以前には、よく見かけた店舗です。昔は「一条市場」と呼ばれ、あの「二条市場」に次ぐ歴史があるんだそうです。

6 【中央区役所前】 
真直ぐに見ゆる山肌に
大倉山の シャンツェあり
カンテの下に誇らしく
五輪マークは輝けり


■大倉山シャンツェが正面に 
電車が向かう正面やや右寄りに、大倉山シャンツェが見えます。
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夜はライトアップされるので、闇の中に浮かび上がって見えます。これほど都心から近いシャンツェは、世界的にも珍しいのだとか。


7 【西15丁目】 
円山行きと西線の
分岐も今はなけれども
曲がる軌道の周りには
医療機関の数多し


■円山行きと西線の分岐跡 
南1条西15丁目では、昭和48年(1973年)まで、西方向に直進する一条線(円山公園方面行き)と、南に曲がる山鼻西線とが分岐していました。歴史の 古い円山行きの方が「本線」、山鼻西線の方は「ローカル線」のような扱いだったのですが、その「本線」の方が先に消えてしまいました。


大正から昭和初期にかけて、市民の気軽な行楽地と言えば円山周辺でした。円山公園の桜、三角山でのスキー、界川にあった「札幌温泉」などに向かう乗客で、電車は満員だったといいます。


■病院城下町 
西15丁目周辺には、札幌医大病院、NTT札幌病院、中村記念病院を中心に、大小さまざまな医療機関が集積しています。
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さらに、調剤薬局はもちろんのこと、お見舞いの需要からかお菓子屋さんも多く、さながら「病院城下町」のようです。


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電車はここから左に曲がり、藻岩山の麓を目指して南下します。


今回はここまで!

「札幌市電唱歌」との散歩は、まだまだ続きます!

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2012年1月26日 (木)

【お知らせ】「Sapporo Ustbar」で、鉄道唱歌の旅のお話をします。

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いつもブラサトルを読んでいただきありがとうございます!

Ustream番組「Sapporo Ustbar」のブラサトル3回シリーズ最終回は、1/30(月)にお送りします。
今回は「北海道鉄道唱歌の旅」についてお話させていただきます。

放送中はどなたでも、Twitterなどのアカウントでタイムライン(画面上での会話)にご参加いただけます。また、会場でご観覧いただくことも可能です。

1/30(月)の20時から。
どうぞご期待ください!

■「北海道鉄道唱歌」とは?■
「♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」の出だしで有名な「鉄道唱歌」。歌詞はご存じなくても、メロディーは特急列車の車内放送のチャイムとしてご存知の方が多いのではないでしょうか?明治時代に大和田建樹が作詞、さまざまな作曲家が曲を競作(多梅雅の曲があまりにも有名)し、鉄道沿線の風景や名所を歌いこんだ、世界で最も長い歌だといわれています。

1番から66番まである東海道編が有名ですが、実は「北海道編」も存在し、明治後期の北海道の風景が「南の巻」「北の巻」それぞれ20番ずつにわたって歌いこまれています。

私は、この歌詞に歌われている風景の104年後を実際に見て回ろうと思い立ち、いま少しずつ、旅を続けているところです。

■放送予定■
sapporo6h 「Sapporo Ustbar」
こちらでご覧いただけます
 ↓          ↓

http://www.ustream.tv/channel/sapporo6h
1月30日(月) 20:00〜21:00ごろ
「北海道鉄道唱歌の旅」

■会場でご観覧いただく場合■
場所:OYOYO(札幌市中央区南1条西6丁目 第2三谷ビル6階)

http://www.oyoyo16.com/top/about_access/
時間:開場 19:00 中継スタート 20:00~
料金:入場無料

■sapporo6hさんのホームページ■
http://www.sapporo6h.com/

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2011年12月18日 (日)

最初は赤くなかった「テレビ塔」(札幌・大通)

札幌の「条」「丁目」のほぼ「原点」に立つ、テレビ塔。
都心を歩く市民は、腕時計ではなくテレビ塔の電光時計で時刻を確認するといわれています。
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高さ147.2m、展望台の高さは90m。
札幌駅のJRタワー展望室(160m)に比べると低いものの、眺めの美しさではテレビ塔に軍配!真正面にまっすぐ延びる大通公園と、シンメトリーな市街地の夜景はこたえられません。


■真っ白だったテレビ塔!?

そのテレビ塔の完成時の絵はがきを見たとき、僕は仰天しました。
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なんと、真っ白ではありませんか!?
これはカラー写真ではなく、白黒写真に手描きで着色したもの(当時よく使われていた手法)です。でも、テレビ塔の絵はがきでテレビ塔の色を塗り忘れたとは考えられず、実際、これに近い色をしていたことは間違いないのでしょう。

着色していない写真がこちら。
1

札幌市文化資料室所蔵

白黒写真ですが、何となく白っぽい色をしていることはわかりますよね。


さっぽろテレビ塔関係者Sさんからの情報によると、完成当時のテレビ塔は「シルバーメタリック」色だったそうです。それを、後で述べる北国ならではの事情から、赤く塗り替えたのだとか。

ただ、塗り替えた時期がいつなのかについては、わかる人が社内にもいないとのこと。「札幌テレビ塔20年史」(北海道観光事業株式会社/昭和53年)にも、色の変化には一切触れられていません。

いったいいつ、どういう経緯があって「赤」に変わったのか、調べてみました。

■昭和32年、テレビ塔完成

50万都市・札幌にテレビ塔が完成したのは、昭和32年(1957年)8月。
実は、東京タワーよりも1年早かったのですね。
2_2  

札幌市文化資料室所蔵

開場前から長蛇の列を作って待っていた市民は、花火の合図とともにドッと入場しました。当時としてはとても斬新なガラス張りのエレベーターで、地上90mの展望台に昇り、初めて見る景観に驚いたり楽しんだり。「もう思い残すことはない」と涙を流すお年寄りもいたといいます。

その当時、展望台から見えたのはこんな風景でした。
Photo_8

札幌市文化資料室所蔵
(開業当時の写真は使えないため、昭和36年の空撮写真)


大通公園の1・2丁目はまだなく、2丁目は北1/3が赤れんがの中央郵便局(後に北4西6に、さらに北6東1に移転)、南2/3は大通バスセンター(後に大通東1に移転)。今の市役所の位置には、中央創成小学校がありました。
Photo_9

札幌市文化資料室所蔵
(こちらは開業時のテレビ塔から撮影)


高いビルがほとんどないので、かなり遠くまで見通すことができます。
塔部分がない道庁赤れんが庁舎(塔部分は昭和43年に復元)や、民衆駅に改築されたばかりで青いタイルを貼る前の札幌駅も見えます。

ちなみに、それまで、一般の人が入ることができる最も高い建物は、丸井今井デパート(一条館)の屋上だったそうです。


■実は名古屋にもある「テレビ塔」

実は、さっぽろテレビ塔にそっくりな塔が、名古屋に存在します。
それがこれ、名古屋テレビ塔です。
Photo_5

さっぽろテレビ塔と同じ内藤多仲氏の設計。3年早く完成し、一回り大きな名古屋の塔は、いわばさっぽろテレビ塔の兄貴分。そっくりなのもうなずけます。

注目したいのがこの色、シルバーメタリックです。完成当時のさっぽろのテレビ塔は、これと同じ色だったのです。
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■「赤白塗装」の義務はまだなかった

昭和35年(1960年)に改正された「航空法」で、高さ60m以上の塔や煙突には「航空障害灯」を取り付け、昼までも目立つ赤白に塗装しなければならないことになりました。

とは言っても、テレビ塔はすでに3年前に完成済みだったため、この規定は適用されません。事実、同じく完成済みだった名古屋テレビ塔は、今でも完成時と同じシルバーメタリックのままです。また、東京タワーは義務化の2年前から赤白塗装でしたが、これは自主的にそうしたものです。

ではなぜ、名古屋のテレビ塔はシルバーのままで、さっぽろテレビ塔だけが赤く塗り替えたのでしょうか?


■札幌と名古屋の事情の違い

完成から3年後、昭和35年(1960年)のカラー写真。
1960

札幌市文化資料室所蔵

まだシルバーメタリック色のままですが、ところどころ、薄黒く汚れているのがわかりますか?

実はこの汚れ、石炭などの「煤煙(ばいえん)」なんです。
当時、燃料の主役は何と言っても石炭。冬になると一斉に暖房を焚くため、札幌の空は真っ黒な煤煙で覆われたといいます。煤煙は、建物の外壁や公園の彫刻にも大量に付着。それを水で洗い流す作業は、春先の風物詩だったそうです。

シルバーメタリック色では、やはり煤煙汚れが目立ち過ぎます。ひと冬ごとに薄黒くなってしまうテレビ塔の姿に、市民からも「汚い!」と苦情が寄せられてしまうほどでした。

煤煙が付着したテレビ塔の「ペンキ塗り」は春の恒例行事だったようで、「お化粧するテレビ塔−ひと冬のアカをためくすんだねずみ色が、ひとはけごとに明るい空色に染め変えられてゆく。」
[昭和37年(1962年)4月6日付 北海道新聞朝刊] などのように、毎年のように新聞記事になっています。

そしてもう一つ、航空関係者から「シルバーメタリックでは目立たない」という指導があったそうです。
吹雪の日には、シルバーメタリックの塔は「保護色」となり、ホワイトアウトで完全に見えなくなってしまいます。後で作られた法律は適用されないとはいえ、航空関係者からの指導はもっともな話。


「煤煙汚れ」「雪の中で目立たない」という、北国ならではの2つの事情が、札幌と名古屋の兄弟テレビ塔の運命を分けることになったのです。

■イメージ一新の狙いも?

オープンからの1年で100万人を記録した展望台入場者。しかし、2年後の昭和35年(1960年)度は約41万人と、大幅に落ち込んでしまいました。それに加えて、地下にあった劇場の賃貸料が思うように回収できず、売上不振の売店が撤退してしまうなどの事情もあって、テレビ塔は1億6千万円という、当時としては巨額の赤字を背負ってしまいます。

テレビ塔は「公共施設」だという立場で資金を出し、音頭をとって来た札幌市としても、これは見逃せない事態。さっそくテコ入れに乗り出し、昭和36年(1961年)5月の株主総会で経営陣が交代しました。

その後、松下電器から贈られた電光時計(広告看板設置が市の許可を受けられなかったため、『松下電器が時計を市に寄贈する』という形を取った)を設置したり、塔の周りを花や噴水で飾るなどの努力により、人気は何とか回復。昭和37年8月24日の北海道新聞には「どうやら危機を脱す〜赤字に悩んだテレビ塔〜」という記事が掲載されています。

実は、テレビ塔の色が赤に変わったのは、その9ヶ月後のこと。このあたりの経緯や時期から考えて、先に挙げた
「煤煙」「雪」のほかに、「イメージ一新」という狙いも、もしかするとあったのではないでしょうか?

■昭和38年、シルバーから赤(コッパーローズ)に変身


かくして、札幌のテレビ塔はついに色を塗り替えることになりました。
新しい色は、展望台入場者へのアンケート(抽選で東京タワーに招待)により、
コッパーローズ(薄朱色)に決定。

Photo_4

あえて東京タワーのような「真っ赤」ではなく、雪の中でも目立ち、風景にも馴染む色ということで選ばれたそうです。
昭和38年(1963年)4月からペンキを塗り始め、6月に完了。現在の「赤いテレビ塔」が誕生しました。

足場組みに毎日40人がかりで20日、ペンキ塗りには30人がかりで1ヶ月、費用は当時の金額で約700万円(この年、銀行員の初任給は月12,500円くらい)という記録が、新聞に残されています。

塗り替え直後と思われる写真。かつて「東洋一の高さ」といわれた消防望楼(昭和40年に解体)と「赤いテレビ塔」が共存した期間はわずか1年半なので、とてもレアな写真です。実はこの写真こそが、赤く塗り替えた時期を特定する一つの手がかりになりました。
1963_3  

札幌市文化資料室所蔵

シルバーメタリックのテレビ塔を見慣れていた札幌っ子たちは、「赤いテレビ塔」にさぞびっくりしただろうと思うのですが、当時の新聞を隅々まで読んでも、そのような記事は見つかりませんでした。
そのころ、毎日市電で大通公園を横断していた母は、赤くなったテレビ塔に驚いた記憶があるそうです。


■これからのテレビ塔に似合う色は?

その後、何度かの塗り替えを経たテレビ塔。
Photo_13

現在は法律が改正され、「高光度航空障害灯」さえ設置すれば、高さ60m以上の鉄塔でも赤白塗装の義務はなくなりました。そういえば、建設中の東京スカイツリーも真っ白ですよね。

煤煙も、スパイクタイヤの車紛もなくなった今、テレビ塔はかつてのシルバーメタリックに、いや、むしろ真っ白にしてもいいのではないか、と思います。
Photo_14

札幌の雪景色にぴったりだと思うのですが、どうでしょう?



【参考資料】
北海道観光事業株式会社編:「札幌テレビ塔20年史」/昭和53年
札幌市教育委員会編:「さっぽろ文庫32・大通公園」
カラー名称とカラーコード表示の比較一覧【CXMedia】
北海道新聞:昭和33年12月9日、昭和35年9月27日、昭和36年6月4日、7月8日、9月4日、9月21日、昭和37年4月6日、5月29日、7月13日、8月24日、昭和38年5月18日、昭和39年1月20日、昭和44年7月18日
ほか

※2012年1月6日追記

テレビ塔、本当に色変更が検討されることになりました。

Photo_4

北海道新聞 平成24年(2012年)1月4日朝刊

しかも、市民から新たな色を公募することに!札幌のイメージや風景に馴染む色にしたいですよね。

ところで、この記事の中で、鉄塔の色が現在の赤色になったのは昭和44年(1969年)ということになっています。上の方で書いたとおり、シルバーから赤になったのは昭和38年(1963年)であり、道新の記事は間違いではないか、と新聞社に問い合わせをしたところ、回答をいただきました。

■昭和44年、赤色の色味を「クラウディレッド」に変更

昭和38年(1963年)にシルバーから赤色「コッパーローズ」に塗り替えられたテレビ塔は、6年後の補修時期に合わせ、赤色の色味を微妙に変えました。それが、現在のテレビ塔の色「クラウディレッド」です。「コッパーブルー」よりもやや濃いめの赤色です。昭和44年(1969年)の4月に塗装を始め、7月に完了しています。

ややこしいのですが、シルバーから赤になったのは昭和38年(1963年)赤は赤でも現在の色味になったのが昭和44年(1969年)、というわけです。もし来年、赤以外の色に変わるとすれば、「色が変わる」のは44年ぶり、「赤以外の色になる」のは50年ぶり、ということになります。

はてさて、テレビ塔は何色に染まるのでしょうか?

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【お知らせ】「Sapporo Ustbar」 2回目は12/26(月)

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いつもブラサトルを読んでいただきありがとうございます!
Ustream番組
「Sapporo Ustbar」のブラサトル編第2回は、12/26(月)にお送りします。

今回の番組では、藻岩山にかつて存在した「進駐軍専用スキー場」や、碁盤の目の「角度のずれ」などについて、ゆるーい感じでお話ができればと思っています。

放送中はどなたでも、Twitterなどのアカウントでタイムライン(画面上での会話)にご参加いただけます。また、会場でご観覧いただくことも可能です。

12/26(月)の20時から。
どうぞご期待ください!


■放送予定■


sapporo6h 「Sapporo Ustbar」

こちらでご覧いただけます
 ↓          ↓
http://www.ustream.tv/channel/sapporo6h

【2回目】
12月中の月曜日(日付未定) 20:00〜21:00ごろ
「札幌の地図に歴史あり/後編」

【3回目】
1月中の月曜日(日付未定) 20:00〜21:00ごろ
「『鉄道唱歌』編」

3回目の放送日は、決まり次第お知らせいたします。
どうぞよろしくお願いいたします!

■会場でご観覧いただく場合■

場所:OYOYO(札幌市中央区南1条西6丁目 第2三谷ビル6階)
http://www.oyoyo16.com/top/about_access/
時間:開場 19:00 中継スタート 20:00~
料金:入場無料

■sapporo6hさんのホームページ■

http://www.sapporo6h.com/

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2011年11月15日 (火)

【お知らせ】 「Sapporo Ustbar」で紹介した古地図

11/14(月)の「Sapporo Ustbar」をご覧いただき、ありがとうございました。
服部さん、森さん、スタッフの皆さんには本当にお世話になりました。

話していて盛り上がり過ぎて、かなり時間をオーバーしてしまいました。
次回は12月のどこかの月曜日、「札幌の地図に歴史あり/後編」をお届けします。
詳しくはまたあらためてお知らせします!

sapporo6h 「Sapporo Ustbar」
こちらでアーカイブをご覧いただけます
 ↓          ↓
http://www.ustream.tv/channel/sapporo6h


■今回の放送の中でご紹介した古地図

【明治6年(1873年)】
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【明治24年(1891年)】
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【大正14年(1925年)】
(右が北になっています)
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【昭和29年(1954年)】
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2011年11月12日 (土)

【お知らせ】 USTREAM「Sapporo Ustbar」に出演します。

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いつもブラサトルを読んでいただきありがとうございます!
実は、あの
sapporo6hさんのUSTREAM番組「Sapporo Ustbar」で、このブラサトルについて3回にわたってお話させていただくことになりました。

「Sapporo Ustbar」は、札幌の「今」を届け続けているsapporo6hさんが毎週月曜日の夜に放送している「完全参加型Ustream中継」番組。「セイコーマート」「札幌架空鉄道」など、札幌の旬なテーマを、タイムラインとリアルタイムに対話しながら熱く掘り下げています。

今回の番組では、ブラサトルがこれまで取り上げた札幌の歴史や鉄道唱歌の旅について、また札幌・北海道の地理や交通史などについて、ゆるーい感じでお話ができればと思っています。大正14年(1925年)と昭和29年(1954年)の札幌の地図もじっくり鑑賞します。

放送中はどなたでも、Twitterなどのアカウントでタイムライン(画面上での会話)にご参加いただけます。また、会場でご観覧いただくことも可能です。

1回目は11/14(月)の20時から。
どうぞご期待ください!


■放送予定■


sapporo6h 「Sapporo Ustbar」
こちらでご覧いただけます
 ↓          ↓
http://www.ustream.tv/channel/sapporo6h

【1回目】
11/14(月) 20:00〜21:00ごろ
「札幌の地図に歴史あり/前編」

【2回目】
12月中の月曜日(日付未定) 20:00〜21:00ごろ
「札幌の地図に歴史あり/後編」

【3回目】
1月中の月曜日(日付未定) 20:00〜21:00ごろ
「『鉄道唱歌』編」

2回目以降の放送日は、決まり次第お知らせいたします。
どうぞよろしくお願いいたします!

■会場でご観覧いただく場合■

場所:OYOYO(札幌市中央区南1条西6丁目 第2三谷ビル6階)
http://www.oyoyo16.com/top/about_access/
時間:開場 19:00 中継スタート 20:00~
料金:入場無料

■sapporo6hさんのホームページ■

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「北海道鉄道唱歌」の旅(3) 【羊蹄山の巻】

早朝6時12分に札幌駅を発車する、小樽方面・然別(しかりべつ)行き普通列車。小樽の先まで直通運転している、今では1日にたった1本になってしまった定期列車です。
Photo

見慣れた電車ではなく、ローカル線の香りがする2両編成の気動車が、エンジンを吹かしながらトコトコと走ります。


■「函館本線」

「函館本線」は、小樽を境に、同じ路線とは思えないほどガラリと変わります。札幌-小樽間は最新式の電車が頻繁に往復しているJR北海道のドル箱路線。一方、小樽から先は非電化の単線で、1日わずか数本しか列車がありません。
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小樽経由の「函館本線」が札幌-函館間のメインルートだったのも、今は昔。函館行きの特急列車は、千歳や苫小牧の方を経由するようになりました。それでも、函館本線には長大なホームや広い敷地をもつ駅が多く、かつて北海道の大動脈として華やかだった時代の名残があります。

然別駅。この長いホームに停まるのは、1両か2両編成の気動車が1日数回だけ。
Photo_3 Photo_4
でも昔は、たくさんの旅客を乗せてSLに牽引された長い列車や、ニシン・木材などを満載した貨物列車で賑わっていたのでしょう。

函館本線には今でも、他のローカル線とはどこか違う、「風格」が漂っています。


■蝦夷富士・羊蹄山

非電化の路線には邪魔な架線や支柱がないので、車窓からの眺めは電化路線よりも数段上です。
Photo_5

エンジンを吹かしながら、ゆっくりと峠を登る気動車。狭い谷と短いトンネルが繰り返される風景に息苦しくなってきたころ、突然、パッと視界が開け、目の前に羊蹄山が現れた瞬間、思わず震えます。
Photo_6

  
●北海道鉄道唱歌「南の巻」・14番

  
仰ぐ雲間に 雪白く
  
積もるは蝦夷富士(えぞふじ)羊蹄山(ようていざん)
  
登れ人々 陸奥湾(むつわん)
  
一目に見ゆる高嶺(たかね)まで
  
  
【大和田建樹作/明治39年(1906年)】

「鉄道唱歌」が作られた明治時代、ここは当然、函館-札幌間のメインルートでした。
大和田建樹は函館側から旅をしているので、「羊蹄山が見える瞬間」が札幌側から来た僕とは少し違います。それでも、彼はよほど感動したらしく、14~17番を使って、羊蹄山とその麓の様子を描いています。


余談ですが、「鉄道唱歌」の歌詞には、大和田建樹の個人的な興味が色濃く反映されています。有名な「東海道編」でも、かなりの区間を大胆に飛ばしている一方、鎌倉は6~9番、京都に到っては46~53番まで使ってじっくりと歌われています。

高さ1,898mの羊蹄山は、富士山によく似ているので蝦夷富士(えぞふじ)とも呼ばれます。
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鉄道唱歌の歌詞を忠実にたどるならば登頂し、山頂から見える陸奥湾をカメラに収めるべきなのですが、以前、藻岩山の200m地点に登るだけで息絶え絶えになったという体たらく。今回は許してください・・・。


■なぜ「ヒツジのひづめ」なのか?

ところで、なぜ「羊蹄=ヒツジのひづめ」なのでしょうか?

アイヌ語で「マッカリ・ヌプリ」と呼んでいたこの山に、最初に付けられた和名は
「後方羊蹄山(しりべしやま)」といいました。「後方」「しりべ」と読み、「ギシギシ」という植物の中国名「羊蹄」「し」と読ませる、超難読地名だったのです。

日本書紀に、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が斉明天皇5年(659年)に蝦夷地に渡り、「後方羊蹄(しりべし)」という場所を支配したという記述があります。難解な漢字表記は、日本書紀が由来だったのですね。ただ、これが果たして史実なのか、また「後方羊蹄(しりべし)」がどの場所を指すのかは、実は今でも謎のままだそうです。

江戸時代の終わりに北海道を探検した松浦武四郎が、この付近を流れる大きな川をアイヌの人たちが「シリ・ペッ」(山の川)と呼んでいる(現在の尻別川)ことを知り、ここが日本書紀に書かれた「後方羊蹄(しりべし)」なのではないかと考えました。
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彼はこの地を「後志国(しりべしのくに)」、その中心にあるマッカリ・ヌプリを「後方羊蹄山(しりべしやま)」と名付けました。

同じ「しりべし」でも漢字が違います。「国名は漢字二字でなければならない」という奈良時代以来の決まりがあったようで、国名は
「後志(しりべし)」、山名は「後方羊蹄(しりべし)」という、非常にややこしい状況が生まれてしまったのです。ついでに言うと、川の名前はなぜか「尻別(しりべつ)」と宛て字されたので、さらにややこしい!

国名の「後志国」は何かと目にする機会も多く、次第に人々の間に定着しました。しかし、山名の「後方羊蹄山」は、あまりにも難し過ぎて定着せず、「こうほうようていざん」と読み間違えられ、略して「羊蹄山(ようていざん)」と呼ばれたり、俗称で「蝦夷富士」と呼ばれることが多かったようです。鉄道唱歌では「蝦夷富士羊蹄山」と呼ばれ、大正9年(1920年)発行の5万分の1地形図「留寿都」には「後方羊蹄山(蝦夷富士)」と記載されています。

戦後になり、「読めない山名では困る!」と動いたのが、地元の倶知安町。読み間違いではあるもののなんとなく定着していた「羊蹄山(ようていざん)」を正式名称にするよう国土地理院に働きかけ、昭和44年(1969年)発行の地形図から書き換えられました。

「月寒(つきさむ)」→本来は「つきさっぷ」、「早来(はやきた)」→本来は「さっくる」など、読み間違いが定着して正式名称になってしまった地名が多い北海道。羊蹄山もその一つだった、というわけです。



■倶知安町

  
●北海道鉄道唱歌「南の巻」・15番

  裾野は倶知安(くっちゃん)の大原野
  ヲンコ 椴松(とどまつ) 楢(なら) 桂(かつら)
  林は天を 打ち掩(おほ)
  面積ほとんど 三十里

  
●北海道鉄道唱歌「南の巻」・16番

  ここを開きて 耕して
  作りし村は 年々(としどし)
  栄えて朝夕 立ちまさる
  煙あまねく 民(たみ)豊か

  
【大和田建樹作/明治39年(1906年)】

羊蹄山麓の中心都市、倶知安(くっちゃん)町。
アイヌ語「クッ・シャン・イ」(管のようなところを流れ出る場所)、または「クチャ・アン・ナイ」(狩り小屋のある沢)の音訳です。
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羊蹄山に磨かれた地下水は、日本一おいしいと言われています。どうやら「日本一おいしい水」は日本全国にあるようです。
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駅前には、平成103年(2091年)に掘り出すというタイムカプセルが。埋めたのは平成5年(1993年)ですから、スーパーファミコンやPCエンジン、「ロマンスの神様」のCDあたりが収められているのでしょうか?
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倶知安駅周辺は整然とした都会という印象。札幌のような碁盤の目の市街地に、条・丁目が割り振られています。とても大きな総合病院があり、ニセコのスキー場で怪我をするとここに運ばれます。そう言えば今年の2月に、友人を運んだばかりです。
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市街地の外に一歩出てみると、そこは今でも北海道屈指の農業地帯。じゃがいもの王国です。
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豊富な水と肥沃な土壌に恵まれた倶知安は、おもに徳島県からの移民たちが開墾しました。
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天を打ち掩(おお)う林も、明治時代から変わっていません。
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豊かな森と川に囲まれた倶知安町やニセコ町は、アウトドアの聖地。来年の夏こそは、尻別川を豪快に下ってみたいと思っています。カヌーは難しそうですが、みんなでラフティングというのも楽しそうですね!
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■雪に埋まる線路

倶知安の短い夏が過ぎ・・・
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秋が過ぎ・・・
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そして冬が来ました。
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●北海道鉄道唱歌「南の巻」・17番

  されど秋過ぎ 冬の来て
  北風 雪を吹くときは
  汽車行く道さへ 埋(うず)もれて
  寒さに泣くは 此(この)附近

  
【大和田建樹作/明治39年(1906年)】

ひたすら、白の世界です。
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倶知安・ニセコは、北海道の中でも特に雪が多いことで知られています。「東洋のサンモリッツ」と呼ばれ、スキーヤーやボーダーにとっては天国のようなところです。
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ここ数年、オーストラリアの人がずいぶん増えました。口コミで人気が広まり、真夏の南半球から真冬の北海道に、パウダースノーを求めてたくさんの人がやって来ます。平成18年(2006年)には、東京・名古屋・大阪をさしおいて、何と倶知安町が住宅地地価上昇率日本一に躍り出たこともありました。

でも、それはあくまで現代の話。
猛烈な寒さと雪は、開拓民たちを大いに苦しめました。越冬を断念して暖かい故郷に帰った人もいれば、冬の間に命を落とす人も少なくなかったと言います。
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北海道の鉄道には、最初の頃は除雪技術がなく、線路が雪に埋まってしまう冬は運休するのが当たり前でした。
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明治中期頃には、貨車に除雪用の前すきなどの装置を取り付けた「雪かき車」が使用されていた記録がありますが、本格的な除雪車の導入は明治44年(1911年)になってから。アメリカのラッセル&スノープロウ社からユキ1形(単線用ラッセル車)を購入してからでした。

寒さに泣いた明治の人たちは、寒さと雪が町に豊かさをもたらす時代が来ることを想像していたでしょうか?

今回はここまで。「鉄道唱歌の旅・北海道篇」は、まだまだ続きます。

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2011年10月30日 (日)

碁盤の目の「角度」(札幌・山鼻)

数学の「座標平面」の授業で、先生がこんなことを言いました。
「x軸は大通、y軸は創成川、原点はテレビ塔の辺りだと思えばいい」
札幌っ子にとって、これほどわかりやすい例えが他にあるでしょうか。

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札幌の中心市街地は、直線道路が等間隔で直角にクロスする、いわゆる「碁盤の目」のような都市計画で知られています。南北の軸は大通で、南39条から北51条まで約14km。東西の軸は創成川で、東30丁目から西29丁目まで約8kmという、巨大な「座標平面」です。

しかし、地図をよく見ると、南3〜6条を境に、北(都心部)と南(山鼻地区)で区画が微妙にずれているのがわかりますか?わかりやすく色分けしてみました。
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赤く塗った道路は都心部、青く塗った道路は山鼻地区。
正確な東西南北の方位に対して、都心部は反時計回りに約9度、山鼻地区は同じく約5度傾いています。どちらも、「南○条西○丁目」という「座標平面」の住所が、とくに区別することなく割り振られています。

すすきのの“深いところ”で飲んだことがある方は、この碁盤の目の乱れを経験的にご存知なのではないでしょうか?

今回は、僕がいつも地図を見るたびにじれったくて身悶えしてしまう、何ともアズマシクない(落ち着かない)この微妙な「角度のずれ」を楽しんでみたいと思います。

■都心部の「角度」を決めた「大友堀」

札幌がまだ原野だったころ、一番最初に引かれた「直線」は「大友堀」でした。
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幕末の慶応2年(1866年)に、幕府の開拓御用を命じられて、現在の札幌市東区に移住した大友亀太郎が、飲み水や水運を確保するために引いた用水路が「大友堀」。これが後に「創成川」と呼ばれ、札幌都心部の街路の基準になります。

どうやら亀太郎は、特に南北の方角を意識したわけではなく、あくまで自然の傾斜に合わせて掘ったようです。

明治2年(1869年)の地図(右が北)を見ると、何もない原野の中に、唯一の直線である大友堀が確認できます。
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ちょうどその年、函館に代わる新しい本府を建設するために札幌原野に派遣されたのが、有名な島義勇判官。彼はまず、すでにあった大友堀の東岸に、南北方向の短い道路を1本造りました。さらに、銭函から札幌経由で千歳方面へ通じる、曲がりくねっていた踏み分け道を整備し、大友堀と直角に、直線でクロスさせました。こうして、創成橋を交点とする十字形の直線道路が、札幌の原野の中に誕生しました。
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さらに島判官は、この十字路を基礎として、まるで平安京のような整然とした「人工都市」をゼロから建設するという、壮大なビジョンをぶち上げます。

島判官の明確なビジョンとリーダーシップのもと、札幌の都市建設がいよいよスタート・・・となるはずだったのですが、事態は急変。島判官は、予算の使い過ぎや独断専行ぶりを問題視され、志半ばで解任、札幌の都市建設は凍結されてしまったのです。

結局、「札幌本府」は大友堀と、縦横1本ずつの直線道路だけを残した状態でストップ。開拓使は方針を変更し、都市よりも周辺の農村の開墾を優先することになりました。


■山鼻の「角度」を決めた「ハッタリベツ新道」

明治3年(1870年)、京都の東本願寺が政府に願い出た、札幌への管刹所(寺)建立と札幌〜虻田間の道路開発について、許可が与えられました。

形の上では東本願寺が自ら志願して、政府がそれを許可したことになっています。しかし実際には、私費での道路開発を「志願」するよう、政府サイドから東本願寺に対して「圧力」があったと言われています。

島判官の「浪費」のせいですっかり財政難になってしまった開拓使にとって、寺院がわざわざ巨額の私費で道路を造ってくれるというのは、いくら何でも都合が良すぎる話ですよね。実は東本願寺には、幕末の動乱時に薩長側ではなく幕府側の味方をしたという負い目がありました。そのため、たとえ無理難題であっても新政府の「意向」には逆らえなかったわけです。

かくして、19歳の大谷光瑩(現如上人)を中心とする東本願寺の一行は、途中、越後国で資金集めをしながら、7月になって札幌に到着しました。創成橋の南西1.2kmの原野の中(現在の南7条西7・8丁目)に管刹所を建立。さっそく道路建設に取りかかります。

このとき造られたのは、平岸から定山渓、中山峠を越えて虻田方面に通じる道路(現在の平岸街道と国道230号線の原型)など、「本願寺道路」と呼ばれる4本の道路。僧侶たちや周辺の移民、たくさんのアイヌの人たちの手によって、わずか1年で完成させました。

その4本の中の1本が、札幌とハッタリベツ(現在の北ノ沢・中ノ沢・南沢)を結ぶ6kmの道路「ハッタリベツ新道」。島判官が残した「銭函道」(現在の南1条通)から一直線に南下し、藻岩山の尾根の終端「軍艦岬」を回り込んで山に入っていくこの道が、後に「石山通(国道230号線)」と呼ばれ、山鼻地区の街路の基準となるのです。北の終点・銭函通には、直角ではなく、約4度傾いて接続されました。
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■「空白の2年」が生んだ、角度のずれ

ハッタリベツ新道の直線は、ほぼ正確に磁北(真北とは約5度のずれがある)を向いています。しかし、意図してそうなったのか、地形や障害物を避けた結果なのか、はっきりとした史料は見つかっていないそうです。
東本願寺による道路開発についての数多くの史料は、「大変な困難を乗り越えた」という美文調の英雄潭には何ページも割いているのですが、「角度がこうなった理由」についての記述は見つけることができませんでした。

ただ一つ言えることは、ハッタリベツ新道が建設された当時、札幌本府を「碁盤の目」にする都市計画はまだ決まっていなかった、ということです。

時系列で確認してみます。


 慶応2年(1866年)09月:大友堀(創成川)ができる
 明治2年(1869年)10月:島判官の都市計画構想
 明治3年(1870年)02月:島判官失脚/都市計画中止
 明治3年(1870年)09月:東本願寺が道路を建設
 明治3年(1870年)11月:札幌都市計画の再検討
 明治4年(1871年)05月:開拓顧問ケプロンが来道/同年、札幌建設を本格的に再開


つまり、島判官とケプロンという、北海道開拓の2大プロデューサーが不在だった「空白の2年」に、ハッタリベツ新道が造られた、ということになります。もし2人のどちらかがいたならば、開拓の基本ともいえる主要道路の開発を寺院に「丸投げ」するようなことはなかったでしょう。また、都市の将来の広がりを見越し、ハッタリベツ新道は札幌本府と同じ角度で設計したはずです。

140年後の今も残る「角度のずれ」は、開拓初期の「空白の2年」の産物である、という見方もできるのではないでしょうか?


■札幌本府と山鼻地区のその後

明治6年(1873年)の地図です。
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札幌本府の「碁盤の目」の都市建設は順調に進んでいます。大通にはまだ公園がなく、幅105mもある広い街路でした。南4〜5条、西3〜4丁目の4ブロックは塀で囲まれています。これが「薄野(すすきの)遊郭」です。

一方、東本願寺周辺はまだ市街地化されていませんが、ハッタリベツ新道の左右に新たな区画が生まれています。これは「山鼻屯田兵村」だと思われます。対ロシア防衛軍と開拓団を兼ねた集団移民「屯田兵」制度ができたのは明治7年(1874年)なので、この地図には後から書き加えられたものです。

その18年後、明治24年(1891年)の地図がこちら。
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二つの市街地はやがてぶつかり、複雑に食い違う街路は苦心して繋ぎ合わせられ、現在の札幌が形作られました。


■「角度の変わり目」を歩いてみる

南4条西18丁目の角にあるヴィクトリア。ここが、山鼻角度のエリアの北西の端です。
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ここから東に向かって歩いてみましょう。
南3条通(山鼻角度)を境に、北側が都心角度、南側が山鼻角度。
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市電山鼻西線の軌道は、ずれを繋ぎ合わせる斜め通りの上に敷かれています。
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境界線の南3条通そのものもまた、途中から都心角度に変化します。
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この通りにある鍋焼きうどんの専門店、詩仙洞。つい先週、友人の渡辺君に教わりました。メニューは鍋焼きうどんだけですが、絶品です。
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島判官が造った「銭函道」と東本願寺が造った「ハッタリベツ新道」の接点は、南1条西10丁目、現在は市電の「中央区役所前」電停がある交差点です。現在、石山通は拡幅され、南1条通に接する部分は都心部の角度に変わっていますが、オリンピック以前は山鼻の角度のまま接している、変形交差点でした。
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そこから少し西側に、今も山鼻角度のまま南1条通に接している道が1本だけありました。西屯田通です。気持ちいいほどまっすぐに伸びる道を見通すことができます。
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西8丁目以東の境界線は、東本願寺のある南7条に移ります。
幅の広い南4条通は、西8丁目で角度を変えているのがわかります。
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ここが東本願寺。現在の正式名称は「真宗大谷派札幌別院」。
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何もない原野だった時代に建てられただけあって、広い敷地です。山門には「勅賜 東本願寺管刹地所/明治三年庚午七月」の石碑があります。

寺の北西角は、都心角度と山鼻角度のわかりやすい接点です。
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余談ですが、「えびそば一幻」はすぐそこ、東屯田通にあります。

市電山鼻線は、都心角度→つなぎ道路→山鼻角度の順に、逆S字カーブを描いて走行しています。子供のころ、ここを電車で通過するたびに、札幌の街路は「碁盤の目」だと教えられたことと、目の前にある現実の風景との矛盾に、僕は身悶えするような違和感を感じたものです。
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一気に南下して、石山通(旧ハッタリベツ新道)の直線部の南端、軍艦岬です。
「岬」といっても海があるわけではなく、藻岩山の尾根が南西部に突き出た部分。この崖を遠くから見ると軍艦の舳先のように見えたため、地元では昔から「軍艦岬」と呼んでいます。
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この崖と川に挟まれた難所を越えると、ハッタリベツ新道は右に折れ、地形に沿ってクネクネと進みます。
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ちなみに、曲がらずにまっすぐ伸びている細い道は旧道ではありません。札幌軟石を輸送する目的で明治9年(1876年)に新設された、石山方面への「直線馬車道」です。ハッタリベツ新道は山道なので馬車が通行できなかったのですね。直線馬車道は豊平川を渡し船で渡り、そのまま真駒内をまっすぐに伸びていました。その真駒内側の道が、現在の「真駒内通」(国道453号線)です。

どうにもアズマシクなかった「角度のずれ」ですが、歴史を知ると、何か愛着のようなものが湧いて来るものですね。


【参考資料】
札幌市編:「新札幌市史(第2巻通史2)」
札幌市編:「新札幌市史(第7巻史料2)」
札幌市教育委員会編:「さっぽろ文庫別冊・札幌歴史地図(明治編)」
北海道新聞社編:「星霜-北海道史1868-1945ー(第1巻明治1)」
若林功:「北海道開拓秘録」(時事通信社)
(社)札幌建築士会札幌支部webサイト「札幌古地名」
山鼻創基八十一周年記念会編:「山鼻創基八十一周年記念誌」/昭和32年
幌西史誌編集委員会編:「幌西史誌」/平成15年
藻岩開基百年記念事業協賛会編:「さっぽろ藻岩郷土史 八垂別」/昭和57年
藻岩下連合町内会編:「郷土史藻岩下」/平成15年
ほか

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2011年10月16日 (日)

「北海道鉄道唱歌」の旅(2) 【港町物語】

「鉄道唱歌」が作られたのは明治時代。
子供たちが楽しく地理を学べるように、というのがそもそもの狙いだったそうで、沿線の地理や歴史、伝説、産業などがふんだんに歌い込まれています。そんな事情からか、ときには鉄道線路からかなり離れた地名が現れることがあります。

      

     ●北海道鉄道唱歌「南の巻」・7番

    馬車の便ある 本郷の
    十四里西に 江差あり
    岩内 寿都
(すっつ)と 諸共に
    北海屈指の 良き港


      【大和田建樹作/明治40年(1907年)】

道外の方には聞き慣れない地名ばかりですが、「本郷(渡島大野)」「江差」「岩内」「寿都」は、お互いにかなり離れています。
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北海道の鉄道網は、最盛期に比べるとずいぶん寂しくなってしまいました。でも、長距離バスが意外に充実しているのも北海道の特徴。ありがたいことに、僕のようなペーパードライバーでも、時刻表と首っ引きで計画さえ練れば、道内のほとんどの場所にたどり付くことができるというわけです。
そんなわけで、「北海屈指の良き港」の104年後を歩いてみました。

■間もなく大変身する、旧「本郷」駅
北斗市

函館本線の七飯と大沼の間にある、渡島大野駅。
104年前に「本郷」と呼ばれ、江差行きの馬車が出ていたのはこの駅です。

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現在、駅前からは函館市内方面へのバスが出ているだけ。江差への交通の起点は、函館駅と八雲駅に変わりました。このあたりは道南屈指の農業地帯で、雄大な田園風景の中に80年代ペンション風(?)の可愛らしい駅舎がポツンと建っています。

しかし、この駅は間もなく化けます。
なんと、2015年(予定)の北海道新幹線函館開業で、この渡島大野駅が終着駅「新函館」になるのです。
これがその完成予想図。大出世ですよね。

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その北海道新幹線。新函館から札幌の延伸は、どうやら絶望に近い情勢です。僕個人としては、新函館が終点のままでよいと思っています。地域の「交通弱者」や、貧乏旅行の若者にとって大切な足である在来線を守りたいのです。函館が「通過駅」ではなく「終着駅」になることで、本州からの人の流れが増え、札幌と肩を並べる大都市になるのも面白いですよね。


■蝦夷地の宝、江差港

江差町

函館から普通列車で約3時間、JR江差線の終点が江差駅です。
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江差線は、鉄道唱歌から29年後の昭和11年(1936年)に全線開通。それまでの馬車輸送に代わりました。戦後は赤字路線となりましたが、途中の木古内駅までの区間が、青函トンネルに繋がる大幹線になっているため、廃止されずに生き残った路線です。2015年の新幹線開通後は、おそらく廃止されてしまうでしょう。

「えさし」という地名は、北海道と東北にいくつかあります。道南の日本海に面した「江差町」、道北のオホーツク海に面した「枝幸町」、岩手県奥州市の「江刺地区」がそれで、いずれもアイヌ語「エサウシ」(頭を海・川に突き出しているところ)の音訳だと言われています。

これが江差の全景。「鴎島」と呼ばれる陸繋島が、本土から海に向かって突き出すような地形。まさに「エサウシ」です。
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首都圏の方は江ノ島を思い浮かべ、フランスの方はモン・サン・ミッシェルを思い浮かべそうです。そういえば、函館市もこんな形をしていますよね。
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江差は、江戸時代から和人が住んでいた港町。
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ニシン漁や北前船の交易で、「江差の五月は江戸にもない」といわれるほどの繁栄ぶりだったといいます。
その名残を感じさせるのが、海の守り神「姥神大神宮」。
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そして、北海道最古の祭り「姥神大神宮渡御祭」。
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毎年8月9日〜11日の3日間、13基の豪華な山車が練り歩きます。江差出身の人は、正月ではなくこの祭りの日に帰省するそうです。7日ごろから江差の人口が急増しはじめ、10日、11日の両日には、各家庭の人数は数倍にも膨れあがり、久しぶりに若者が目立つようになります。近隣の町まで含め、旅館という旅館はすべて満員に。家々では豪勢なごちそうが大量に用意され、「結構なお祭りですね」という合言葉(?)さえ言えば、見ず知らずの家に上がり込んで宴会に参加できるのだとか!?

姥神大神宮の界隈には、かつての繁栄を伝える建物が残っています。
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空気を読んだ北海道新聞社の新しい建物、GJです。
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歌うのが恐らく日本一難しい民謡「江差追分」。
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こんな歌詞がありました。

 蝦夷の前浜 鰊が群来(くき)て 勇む舟子の 大漁節
 曳けや浜から 黄金が上がる 黄金千石 二千石

そんな江差町も、漁業不振や若年層の町外流出で、人口は最盛期の3分の2。過疎地域の指定を受けています。


■あなどれない奥深さ、岩内港

岩内町

アイヌの人たちが「イワウ・ナイ」(硫黄の川)と呼んでいた岩内町。
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母が昔、岩内の中学校で教育実習をしていたと聞いたことがあります。

そんな、因縁浅からぬ岩内へは、札幌駅のバスターミナルから「高速いわない号」で向かいました。本数も多く、予想以上に便利。小樽駅前からは補助席まで満員になり、岩内にこれほどの集客力があるのかと驚いていたら、ほとんどの乗客が余市で降りました。なるほど。

岩内に通じる鉄道は、昭和60年(1985年)に廃止されました。航空写真を見ると、かつての線路跡が今でもはっきりとわかります。
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かつて駅だった場所が、バスターミナルと道の駅になっていました。
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岩内漁港。ホッケやヒラメがよく上がるそうです。
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残念ながら、港の食堂はお休みでした。
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道の駅のすぐ隣に、有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」のモデルにもなった、岩内出身の画家・木田金次郎の記念館があります。
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岩内の風景を、ゴッホを思わせる大胆な筆致で描いた油絵には引き込まれました。バス出発までの時間つぶしのつもりで立ち寄ったのですが、とんだ心得違いでした。いつか、この美術館にじっくり浸りに行こうと思います。

また、なぜか夏目漱石が本籍を置いていたり、中島みゆきが子供の頃住んでいたり。岩内は、話のネタに事欠かない港町でした。

■弁慶岬がある、寿都(すっつ)港
寿都町

岩内から、寿都行きのニセコバスが出ています。
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ガラガラのバス(失礼)で思い切り手足を伸ばし、日本海を眺めながら、1時間8分の優雅な旅。

昔、父の運転する車でこのあたりを走ったときには、狭いトンネルが多く、対向車にぶつかりそうで怖かった印象がありますが、今はかなり改良されているようです。
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寿都のシンボル、風力発電の巨大風車が見えてきました。
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バスターミナルは、岩内のそれと比べるとやや地味。
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寿都はアイヌ語「シュプキ・ペッ」(矢の材料にする茅がある川)の音訳。和人の入植後は、ニシン漁で栄えた漁港でした。
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大正9年(1920年)には、国鉄函館本線の黒松内駅から寿都までの私鉄「寿都鉄道」が開通。ニシンの輸送だけではなく、旅客輸送も大いに繁盛し、最盛期には年間31万人もの乗客を運んだといいます。ニシン漁の季節には、ニシンの脂で列車がスリップしたというエピソードも。

戦後、ニシン漁の衰退や鉱山の閉山などが相次ぎ、昭和43年(1968年)の豪雨で路盤が流されてしまったのを最後に運行を休止、寿都鉄道はそのまま廃止されてしまいました。

その後、かつて漁師たちを悩ませた全国有数の強風「だし風」を逆手に取り、全国で初めて、自治体として風力発電に取り組み始めました。さらに、風車の製造過程で出る副産物である製鋼スラグと腐葉土の混合物で作られた人工藻礁により、海の環境を再生させ、昆布やウニなどの漁業をも活性化させようとしています。

道の駅「みなとま〜れ寿都」。
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北海道は道の駅がとても充実しています。全国に道の駅は977ヶ所ありますが、その1割以上の112ヶ所が北海道にあるそうです。

ニシン漁で繁栄した時代、魚油を取り出すために大量のニシンを煮た「ニシン釜」が展示されています。
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さらに、寿都市街から少し離れた岬へ。
このシルエット、そう、弁慶です。
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この「弁慶岬」には、源義経と弁慶が逃れてきたという言い伝えがあるのです。
その言い伝えによれば、奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していました。弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って海尊の到着を待ったものの、ついに海尊軍団の船影を見ることはできませんでした。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことをいつしか「弁慶岬」と呼ぶようになったのだそうです。

でも、実際の所は、アイヌの人たちがこの岬の先端(岩が裂けたように見える)を「ベルケイ」(裂けたところ)と呼んでいたのを、和人が「ベンケイ」と聞き違えた、というのがどうやら真実のようですが・・・。

寿都ターミナルから再びニセコバスに揺られ、ジャガイモ畑の中をJR函館本線の黒松内駅へ。黒松内からは汽車に乗り、途中の昆布温泉で汗を流したりしながら、小樽乗り換えで札幌に戻ったのでした。

今回はここまで。「鉄道唱歌の旅・北海道篇」は、まだまだ続きます

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2011年7月24日 (日)

「札幌温泉」-元祖リゾート開発の夢の跡(札幌・界川)

ここ数年の間に、札幌にも温泉やスーパー銭湯がずいぶん増えました。
でも、旭山記念公園のすぐ近くに、大正から昭和初期のわずか数年間だけ存在した「温泉」があったことをご存知ですか?

それが、これ。その名も「札幌温泉」です。
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場所は、旭山記念公園の駐車場に向かう、南9条通(旭山公園通)沿いの界川地区。児童養護施設「南藻園」がある辺りです。前回のスキー場の記事でご紹介した、先輩のIさんと一緒に現地に行ってみました。

上の写真を細かく見てみましょう。背後の山の稜線から、上の写真はこの方向を撮影していると推測されます。
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南藻園のグラウンドが一段高くなっている辺りに、温泉の建物があったのではないでしょうか?

近づいてみると、古いコンクリートの残骸が残っています。
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また、古そうな切り株を発見。位置関係から考えて、古い写真の建物の右手にある樹木かも知れません。
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地図で表すと、このようになります。
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今回はこの「札幌温泉」の、とても夢のある計画と、残念な結末のお話です。

■夢の温泉開発プロジェクト

大正10年(1921年)ごろ、立憲政友会の代議士であり、十勝で牧場を経営していた高倉安次郎らが発起人となり、札幌郡円山村(現:札幌市中央区)の界川地区に、温泉を中心とした別荘地開発・宅地開発をはじめとする大規模な開発プロジェクトを立ち上げました。

ところが、まだ掘削技術が未熟だったため、現地で温泉を掘り当てることはできず、何と、30km以上離れた定山渓温泉から、パイプラインで湯を引き、それを再度沸かすという、現在では考えられない方法がとられました。

ともあれ、大正15年(1926年)5月9日、「札幌温泉」がオープン。豪華な洋風の鉄筋コンクリート2階建ての温泉施設は、当時の札幌っ子を驚かせました。
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札幌市街を一望できる展望バルコニーが設けられ、人気を博したといいます。
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食事処や宿泊設備、300人の宴会が可能な大宴会場を完備。また、子どものためにミニ動物園を設け、ヒグマも飼育していました。
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館内は和風で豪華絢爛。現在の温泉施設にもよく似ています。
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当時のパンフレット。
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現在の温泉と変わらないサービスもあれば、時代を感じさせるサービスもあって面白いです。「定山渓よりも近い温泉」というもの珍しさも手伝って、多くの市民が押し寄せました。

■「温泉電車」の敷設

市内から近いとはいっても、最も近い市電停留場から2km以上離れていたため、札幌温泉では独自に路面電車を敷設することを計画。そのための会社「札幌温泉電気軌道」を設立し、札幌市電「円山3丁目」電停と札幌温泉とを結ぶ2.2kmの路面電車の敷設特許を取得、昭和4年(1929年)6月末に運行を開始しました。電車2両を導入し、単線の路線をピストン輸送していたものと思われます。

その路線図を、現代の地図に書き入れてみました。
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大きな道路を通らずに無駄にクネクネとした路線に見えますが、この辺りの大きな道路が建設されるのはずっと後、札幌オリンピック直前のことです。

しかし、終点の「温泉下」電停は、温泉から微妙に離れた場所にあり、電車を降りた客は、約400m、高低差30mの急な坂道を歩かなければなりませんでした。札幌温泉電気軌道の車両は35kw級のモーター2個を装備しており、当時の札幌市電の最新車両(18kw級モーター)に比べて馬力があったとはいえ、この最後の急坂を登らせるのは技術的に難しかったのでしょう。さらに、除雪車両を持っていなかったため、冬は電車を動かせず、馬そりで乗客を運んだそうです。

初年度は約6万7千人の運輸実績(当時の札幌市の人口は13万人)をあげ、札幌温泉はさらに大繁盛。お客さんからもらうご祝儀で、仲居さんの着物は膨らんでいたといわれています。勢いに乗った札幌温泉の幹部は、もっと利用客を増やそうと、電気軌道を琴似駅や山鼻方面に延伸することを計画。さらにはロープウェイの開発計画まで打ち出したのでした。

もし、これらが実現していたら、山鼻や藻岩地区は、現在とは違う発展の仕方をしていたかも・・・。そんな空想をすると、何だかワクワクしませんか?

■「温泉電車」の路線跡を歩く

その「札幌温泉電気軌道」の路線跡を、先輩のIさんと一緒に歩いてみました。
「札幌温泉」跡地から、坂道を400mほど下った交差点が、「温泉下」電停跡。ここで電車を降り、温泉まで歩くのは、高齢者にはかなり厳しかったと思います。
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坂道を下り、啓明中学校のところが「南九条」電停。ここで、斜め左に入ります。「斜め」なのは、実は9条通の方であって、この南北の通り(西26丁目通)の角度は、札幌都心の南北の街路と同じです。
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環状通と西25丁目通が分岐する賑やかな交差点が「南八条」電停。当時は環状通などなく、もっとのどかだったはずです。
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電車は「南七条」電停で左折し、旧琴似街道に入ります。
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すぐに旧琴似街道と別れ、現在のパールモンドール前にあった「南六条」電停からは、まっすぐ北に向かいます。
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電車通の面影がまったくない「南三条」電停跡。中島みゆきさんの歌に出て来るのは、この付近でしょうか?
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そして、大通にぶつかるところが終点の「南一条」電停。目の前を、札幌市電の一条線が走っており、この交差点に「円山三丁目」電停がありました。左が円山公園方面、右が三越前方面です。
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電車が存在した期間があまりに短かったため、全線を通じて、沿線が電車によって「街」として成熟した形跡はまったくありませんでした。なぜ、短期間で消えてしまったのか、再び「札幌温泉」のお話に戻ります。

■早くも狂い始めた計画

温泉が大繁盛している一方で、肝心の宅地開発や別荘分譲の方は人気が今ひとつでした。単線で、しかも冬には運休してしまうような電車では、日常生活のアクセスとしては不便だったのです。しかも、そもそも当時の札幌には、リゾート地に別荘を買うような富裕層はほとんどいませんでした。

当初の「温泉を中心とした宅地開発」という目論みは、どうもうまくいかなかったようです。
そして、予想外の出来事が追い討ちをかけます。

■「温泉電車」の悲運

札幌温泉電気軌道開業の翌年の昭和5年(1930年)、漏電による火災で、電車の電力を供給していた変電所が全焼。電車を動かすことができなくなってしまったのです。

そこで、札幌温泉側は札幌市に相談。札幌市電の架線から電力供給を受けて、社名を「札幌郊外電気軌道」と改め、何とか営業を再開しました。ところが今度は、札幌市への料金支払いが続かず、給電を止められる事態となりました。このため、ガソリンエンジンで動く34人乗りの車両1両を代理店から借り入れて導入。変電所復旧までの期限付きで、ガソリン動車の使用認可を得て運行を再開しました。

しかも、このガソリン動車を貸した「代理店」を経営していたのは、当時の札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)の社長で、明らかに法外な値段で貸し付けていました。どうも、怪しい臭いがしてきましたね。

結局、ガソリン動車を「代理店」から借り続ける限り、社長の懐に金が入る仕組みになっており、焼失した変電所を復旧する気はゼロだったようです。

また、ガソリン動車のエンジンは、それまでの電車のモーターに比べて力が弱い上、ブレーキがハンドブレーキ一つだったことから、鉄道省からは、界川地区の勾配区間での運行は不適切と判断されてしまいます。そのため、途中までの平坦区間に限っての運行許可が出されますが、札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)はこれを無視。強引に全区間を走らせていました。

1両のみで予備車がなかったこともあり、もともと運休していた冬季のほかにも、車両故障や検査のために無断で運休することが少なくありませんでした。

■ついに尽きた「札幌温泉」の命運

不運はさらに重なります。世界的な金融恐慌の嵐が吹き荒れ、日本は空前の不景気に突入。札幌温泉の客は激減し、別荘地開発も完全に失敗。札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)の乗客も減少しました。この間、定山渓鉄道が電化され、定山渓までの所要時間が短縮したことも、札幌温泉の人気低下に拍車をかけました。

悪いことは重なるもの。同じ年、定山渓温泉から湯を引いていたパイプラインが損傷し、札幌温泉は開業わずか4年目にして、「お湯が出ない」という最悪の事態に陥ります。すでに修理費用も捻出できないことから、間もなく廃業に追い込まれました。

温泉廃業後も、札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)はしばらく営業を継続していました。しかし、温泉客がいなくなったことに加え、開拓目的の鉄道ではないことから北海道拓殖鉄道補助を受けることもできず、経営状態はみるみる悪化。3年後には無許可のまま運休状態となり、最終的には、そのことで鉄道省から特許を剥奪されるという不名誉な結末を迎えてしまいました。

■その後

こうして、時代を先取りし過ぎた温泉リゾート開発の夢は、わずか数年で終わってしまいました。
札幌温泉のあった辺りはいつしか「温泉山」と呼ばれ、建物の廃墟は、戦後まで残っていました。昭和28年(1953年)になって、跡地が鉄道弘済会に売却され、建物はようやく解体。児童養護施設「南藻園」が建設されました。
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いま、かつての温泉の賑わいや騒動など何もなかったかのように、静かな住宅街となっている界川地区。時代の流れを見守って来た古いコンクリート土台や切り株は、60年後のバブルとその崩壊を、苦笑いしながら見ていたのかも知れません。

【参考資料】
Webサイト「北海道の産業遺産」「Wikipedia」「北海道建築士会札幌支部」「札幌古地名」「絵葉書の世界」
ニコニコ動画「【迷列車】温泉〜無謀のルーツ【札幌編】」
札幌市教育委員会編:さっぽろ文庫22「市電物語」
札幌LRTの会編:「札幌市電の走った街今昔」(JTBキャンブックス)
日本鉄道旅行地図帳編集部編:「日本鉄道旅行歴史地図帳1号・北海道」(新潮社)
ほか

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