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2011年7月

2011年7月24日 (日)

「札幌温泉」-元祖リゾート開発の夢の跡(札幌・界川)

ここ数年の間に、札幌にも温泉やスーパー銭湯がずいぶん増えました。
でも、旭山記念公園のすぐ近くに、大正から昭和初期のわずか数年間だけ存在した「温泉」があったことをご存知ですか?

それが、これ。その名も「札幌温泉」です。
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場所は、旭山記念公園の駐車場に向かう、南9条通(旭山公園通)沿いの界川地区。児童養護施設「南藻園」がある辺りです。前回のスキー場の記事でご紹介した、先輩のIさんと一緒に現地に行ってみました。

上の写真を細かく見てみましょう。背後の山の稜線から、上の写真はこの方向を撮影していると推測されます。
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南藻園のグラウンドが一段高くなっている辺りに、温泉の建物があったのではないでしょうか?

近づいてみると、古いコンクリートの残骸が残っています。
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また、古そうな切り株を発見。位置関係から考えて、古い写真の建物の右手にある樹木かも知れません。
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地図で表すと、このようになります。
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今回はこの「札幌温泉」の、とても夢のある計画と、残念な結末のお話です。

■夢の温泉開発プロジェクト

大正10年(1921年)ごろ、立憲政友会の代議士であり、十勝で牧場を経営していた高倉安次郎らが発起人となり、札幌郡円山村(現:札幌市中央区)の界川地区に、温泉を中心とした別荘地開発・宅地開発をはじめとする大規模な開発プロジェクトを立ち上げました。

ところが、まだ掘削技術が未熟だったため、現地で温泉を掘り当てることはできず、何と、30km以上離れた定山渓温泉から、パイプラインで湯を引き、それを再度沸かすという、現在では考えられない方法がとられました。

ともあれ、大正15年(1926年)5月9日、「札幌温泉」がオープン。豪華な洋風の鉄筋コンクリート2階建ての温泉施設は、当時の札幌っ子を驚かせました。
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札幌市街を一望できる展望バルコニーが設けられ、人気を博したといいます。
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食事処や宿泊設備、300人の宴会が可能な大宴会場を完備。また、子どものためにミニ動物園を設け、ヒグマも飼育していました。
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館内は和風で豪華絢爛。現在の温泉施設にもよく似ています。
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当時のパンフレット。
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現在の温泉と変わらないサービスもあれば、時代を感じさせるサービスもあって面白いです。「定山渓よりも近い温泉」というもの珍しさも手伝って、多くの市民が押し寄せました。

■「温泉電車」の敷設

市内から近いとはいっても、最も近い市電停留場から2km以上離れていたため、札幌温泉では独自に路面電車を敷設することを計画。そのための会社「札幌温泉電気軌道」を設立し、札幌市電「円山3丁目」電停と札幌温泉とを結ぶ2.2kmの路面電車の敷設特許を取得、昭和4年(1929年)6月末に運行を開始しました。電車2両を導入し、単線の路線をピストン輸送していたものと思われます。

その路線図を、現代の地図に書き入れてみました。
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大きな道路を通らずに無駄にクネクネとした路線に見えますが、この辺りの大きな道路が建設されるのはずっと後、札幌オリンピック直前のことです。

しかし、終点の「温泉下」電停は、温泉から微妙に離れた場所にあり、電車を降りた客は、約400m、高低差30mの急な坂道を歩かなければなりませんでした。札幌温泉電気軌道の車両は35kw級のモーター2個を装備しており、当時の札幌市電の最新車両(18kw級モーター)に比べて馬力があったとはいえ、この最後の急坂を登らせるのは技術的に難しかったのでしょう。さらに、除雪車両を持っていなかったため、冬は電車を動かせず、馬そりで乗客を運んだそうです。

初年度は約6万7千人の運輸実績(当時の札幌市の人口は13万人)をあげ、札幌温泉はさらに大繁盛。お客さんからもらうご祝儀で、仲居さんの着物は膨らんでいたといわれています。勢いに乗った札幌温泉の幹部は、もっと利用客を増やそうと、電気軌道を琴似駅や山鼻方面に延伸することを計画。さらにはロープウェイの開発計画まで打ち出したのでした。

もし、これらが実現していたら、山鼻や藻岩地区は、現在とは違う発展の仕方をしていたかも・・・。そんな空想をすると、何だかワクワクしませんか?

■「温泉電車」の路線跡を歩く

その「札幌温泉電気軌道」の路線跡を、先輩のIさんと一緒に歩いてみました。
「札幌温泉」跡地から、坂道を400mほど下った交差点が、「温泉下」電停跡。ここで電車を降り、温泉まで歩くのは、高齢者にはかなり厳しかったと思います。
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坂道を下り、啓明中学校のところが「南九条」電停。ここで、斜め左に入ります。「斜め」なのは、実は9条通の方であって、この南北の通り(西26丁目通)の角度は、札幌都心の南北の街路と同じです。
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環状通と西25丁目通が分岐する賑やかな交差点が「南八条」電停。当時は環状通などなく、もっとのどかだったはずです。
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電車は「南七条」電停で左折し、旧琴似街道に入ります。
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すぐに旧琴似街道と別れ、現在のパールモンドール前にあった「南六条」電停からは、まっすぐ北に向かいます。
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電車通の面影がまったくない「南三条」電停跡。中島みゆきさんの歌に出て来るのは、この付近でしょうか?
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そして、大通にぶつかるところが終点の「南一条」電停。目の前を、札幌市電の一条線が走っており、この交差点に「円山三丁目」電停がありました。左が円山公園方面、右が三越前方面です。
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電車が存在した期間があまりに短かったため、全線を通じて、沿線が電車によって「街」として成熟した形跡はまったくありませんでした。なぜ、短期間で消えてしまったのか、再び「札幌温泉」のお話に戻ります。

■早くも狂い始めた計画

温泉が大繁盛している一方で、肝心の宅地開発や別荘分譲の方は人気が今ひとつでした。単線で、しかも冬には運休してしまうような電車では、日常生活のアクセスとしては不便だったのです。しかも、そもそも当時の札幌には、リゾート地に別荘を買うような富裕層はほとんどいませんでした。

当初の「温泉を中心とした宅地開発」という目論みは、どうもうまくいかなかったようです。
そして、予想外の出来事が追い討ちをかけます。

■「温泉電車」の悲運

札幌温泉電気軌道開業の翌年の昭和5年(1930年)、漏電による火災で、電車の電力を供給していた変電所が全焼。電車を動かすことができなくなってしまったのです。

そこで、札幌温泉側は札幌市に相談。札幌市電の架線から電力供給を受けて、社名を「札幌郊外電気軌道」と改め、何とか営業を再開しました。ところが今度は、札幌市への料金支払いが続かず、給電を止められる事態となりました。このため、ガソリンエンジンで動く34人乗りの車両1両を代理店から借り入れて導入。変電所復旧までの期限付きで、ガソリン動車の使用認可を得て運行を再開しました。

しかも、このガソリン動車を貸した「代理店」を経営していたのは、当時の札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)の社長で、明らかに法外な値段で貸し付けていました。どうも、怪しい臭いがしてきましたね。

結局、ガソリン動車を「代理店」から借り続ける限り、社長の懐に金が入る仕組みになっており、焼失した変電所を復旧する気はゼロだったようです。

また、ガソリン動車のエンジンは、それまでの電車のモーターに比べて力が弱い上、ブレーキがハンドブレーキ一つだったことから、鉄道省からは、界川地区の勾配区間での運行は不適切と判断されてしまいます。そのため、途中までの平坦区間に限っての運行許可が出されますが、札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)はこれを無視。強引に全区間を走らせていました。

1両のみで予備車がなかったこともあり、もともと運休していた冬季のほかにも、車両故障や検査のために無断で運休することが少なくありませんでした。

■ついに尽きた「札幌温泉」の命運

不運はさらに重なります。世界的な金融恐慌の嵐が吹き荒れ、日本は空前の不景気に突入。札幌温泉の客は激減し、別荘地開発も完全に失敗。札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)の乗客も減少しました。この間、定山渓鉄道が電化され、定山渓までの所要時間が短縮したことも、札幌温泉の人気低下に拍車をかけました。

悪いことは重なるもの。同じ年、定山渓温泉から湯を引いていたパイプラインが損傷し、札幌温泉は開業わずか4年目にして、「お湯が出ない」という最悪の事態に陥ります。すでに修理費用も捻出できないことから、間もなく廃業に追い込まれました。

温泉廃業後も、札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)はしばらく営業を継続していました。しかし、温泉客がいなくなったことに加え、開拓目的の鉄道ではないことから北海道拓殖鉄道補助を受けることもできず、経営状態はみるみる悪化。3年後には無許可のまま運休状態となり、最終的には、そのことで鉄道省から特許を剥奪されるという不名誉な結末を迎えてしまいました。

■その後

こうして、時代を先取りし過ぎた温泉リゾート開発の夢は、わずか数年で終わってしまいました。
札幌温泉のあった辺りはいつしか「温泉山」と呼ばれ、建物の廃墟は、戦後まで残っていました。昭和28年(1953年)になって、跡地が鉄道弘済会に売却され、建物はようやく解体。児童養護施設「南藻園」が建設されました。
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いま、かつての温泉の賑わいや騒動など何もなかったかのように、静かな住宅街となっている界川地区。時代の流れを見守って来た古いコンクリート土台や切り株は、60年後のバブルとその崩壊を、苦笑いしながら見ていたのかも知れません。

【参考資料】
Webサイト「北海道の産業遺産」「Wikipedia」「北海道建築士会札幌支部」「札幌古地名」「絵葉書の世界」
ニコニコ動画「【迷列車】温泉〜無謀のルーツ【札幌編】」
札幌市教育委員会編:さっぽろ文庫22「市電物語」
札幌LRTの会編:「札幌市電の走った街今昔」(JTBキャンブックス)
日本鉄道旅行地図帳編集部編:「日本鉄道旅行歴史地図帳1号・北海道」(新潮社)
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2011年7月17日 (日)

進駐軍専用スキー場跡(札幌・藻岩山)

札幌の都心を見下ろす、藻岩山。
「藻岩山スキー場」は、札幌っ子なら一度は滑るホームゲレンデです。

現在のスキー場が造られる前、北側(都心方向)の斜面に、「進駐軍専用スキー場」があったことをご存知ですか?

■「クリスマスまでにスキー場を造れ」

戦後間もない昭和21年(1946年)の秋、進駐軍は北海道に対し、藻岩山へのスキー場建設を命令しました。担当のウォースレーヤ大佐は「クリスマスまでに完成させなければ、沖縄で重労働だ!」と言ったとか言わないとか。

当時すでに天然記念物に指定されていた藻岩山。その季節ごとの美しさは、札幌市民の自慢でもありました。それを伐採して自分たち専用のスキー場を造らせろとは、いくら戦勝国とはいえ、あんまりです。当然、日本側としては事情を説明してやんわりと拒絶するのですが、「保安林の伐採を最小限にする」という譲歩を引き出すのが精一杯。スキー場建設はすぐに開始されました。このときに設計・監督を務めたのは、後に北海道知事になる堂垣内尚弘さんだったそうです。

これが、「進駐軍専用スキー場」の全体図です。
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藻岩山山頂と、下の方にある「貯水槽(現在の水道記念館)」を目印に、現在の地図に重ね合わせてみました。
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山頂から、都心の方向に一気に滑り降りるコースだったようです。N43°などのお洒落なレストランが建ち並ぶあたりに、スキー場のベースがあったことがわかります。20m級のシャンツェまであります。
ロッジに「将校用」「下士官用」があるのが面白いですね。

■日本最初のリフト

このスキー場で重要なことは、なんと、日本最初のスキーリフトが架設されたことです。上の図で「第1スキートウ」「第2スキートウ」とあるのが、リフトです。このようなものだったようです。
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同時期に、長野県の志賀高原にも進駐軍用スキー場が造られ、リフトが架設されており、札幌だけが最初、というわけではありません。
記録によると、第1スキートウは高低差164m、長さ983m、2人乗りの搬器が44個設置され、1時間当たり100人の輸送能力があったといいます。支柱は、鉄材不足により木製でした。

その「第1スキートウ」の降り場が、コンクリート製の台座だけ現存しています。
藻岩山の登山道の途中にあるその台座。最初に就職した職場の先輩Iさんとお酒を飲んだ際に「一緒に見に行こう!」という話で盛り上がり、6月のある日、ついに決行することになりました。

■リフト跡へ探検開始

その日、Iさんも僕も自転車で、慈恵会登山口近くのセイコーマートで落ち合いました。
飲み物や虫除けスプレーを購入し、登山口へ。リフト跡までわずか1kmあまりの往復ですが、念のため(?)、登山口のお地蔵様に道中の安全を祈願します。
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登山口の駐車場はなんと満車。登山道を大勢の人が歩いているのが見えます。

ちなみに、藻岩山の登山道には33のお地蔵様があります。
一つ一つが、西国三十三観音霊場のお寺を表していて、本家のお寺と同じ御詠歌が刻まれています。山頂まで登れば、三十三霊場の巡礼と同じご利益があると言い伝えられています。
現代の登山者にとっては、「第17番まで来たから、あと半分だ!」というような、道程の目安として親しまれています。

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第1番 【青岸渡寺】
補陀洛(ふだらく)や 岸うつ波は三熊野(みくまの)の
那智のお山にひびく滝つ瀬

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第3番 【粉河寺】
父母(ちちはは)の 恵みも深き粉河寺(こかはでら)
仏の誓ひ頼もしの身や

スキー場造成で、これらのお地蔵様が壊されなかったことは、不幸中の幸いでした。

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登山といっても、藻岩山の登山道はとてもきれいに整備され、登り初めなどは、山というよりも「公園」のようです。
登山道の周りは、手付かずのままの自然が残されています。生活の場からこんなに近くに、これほど豊かな森があることを、札幌っ子はもっと誇りに思っていいような気がします。

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すぐ下にある僕の母校「旭丘高校」で、応援団の練習をしている声が聞こえて来ます。実は僕も、高校時代は応援団員でした。「あの掛け声のとき、手足は確かこんな動きだったな」と、応援のマネゴトをする余裕がまだありました。

しかし、あっという間に余裕は消え去りました。次第に無口になり、何度も足が止まり、Iさんをお待たせすることが多くなって来ました。

■コンクリート台座に到着

子供のころ、学校の遠足で何度も登頂したはずなのですが、39歳・103kgの身体は悲鳴を上げ、膝はもう「大笑い」しています。
いよいよ限界に近づいた頃、やっと目的の場所に到着しました。

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登山客の間で通称「休憩所」「砲台跡」などとこ呼ばれているのコンクリートの構造物こそ、日本最初のスキーリフトの降り場の跡です。

台座から少し離れて、大きな金具が付いた壁があります。

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ここからコースが始まっていたはずです。よく見ると、頭上は周囲の木々の枝で覆われているものの、コースだったあたりは笹薮で、大きな樹木はありません。

登山客の多くはここで最初の休憩をとっているようです。
家族連れやカップルが、「ここは戦争中の砲台跡だ」などと話しているのが聞こえます。

藻岩山に高射砲が設置されていてもおかしくはないので、「ここに砲台があった」というのもあながち間違いとは言えないのかも知れません。でも、目の前のコンクリート台座は、設計者もはっきりしており、誰が何と言おうとリフト降り場であることは確かです。

■ここにスキー場を造った「もう一つの目的」は?

ここでIさんと話し合ったのは、進駐軍がここにわざわざスキー場を造らせた「もう一つの目的」についてでした。
藻岩山は、札幌を一望できる観光地として有名です。このことは、見方を変えれば、軍事的に重要な拠点だということにもなります。もし、進駐軍への反抗を試みるテロリストがこの山中に潜んだとしたら、進駐軍側にはとても厄介なことです。つまり、藻岩山そのものを進駐軍が「制圧」するための拠点として、道庁と摩擦を起こしてまでスキー場を造らせたのではないか、という結論にいたりました。まあ、想像の域を出ないのですが・・・。

同行のIさんは、このまま山頂まで行きたいというオーラを発しています。でも、僕は情けないことに、すでに体力の限界です。Iさんごめんなさい!と思いつつ、頑として下山させていただきました。次回こそは・・・頑張って登ります!

下山途中にも、かなり多くの人とすれ違いました。藻岩山登山がこれほどの人気だとは驚きです。

■進駐軍専用スキー場、その後

「進駐軍専用スキー場」は、進駐軍撤退後「札幌スキー場」と名を変え、競技会などで使用されました。昭和33年(1958年)のスキー国体の会場となったのを最後に使用が禁止され、裏側の斜面に新設された現在の「藻岩山スキー場」にバトンタッチしたのでした。

廃止6年後の昭和36年(1961年)の航空写真です。

1961

まだ、スキーコースやリフト降り場がはっきりと確認できます。

こちらは、平成20年(2008年)の航空写真。

2008

つくづく、自然の回復力は偉大だと思います。上空から見る限り、どこにスキーコースがあったのか、もうまったくわかりません。
ただ、山頂からロープウェイ山頂駅付近までの直線部分だけは、旧「進駐軍専用スキー場」の中で唯一、その後も存続したコースで、平成17年(2005年)まで「藻岩山スキー場」の「山頂コース」として転用されていました。この新しい航空写真にも、はっきり残っています。

それにしても、登山者たちから誤解されまくっているあのコンクリート台座。
日本で最初のスキーリフトの跡として、説明板のようなものを市で設置できないか、と思います。

【参考資料】
コンサルタンツ北海道 第112号:道路情報館 真田英夫氏「堂垣内尚弘先生の足跡を訪ねて(ii)-札幌スキー場の建設-」
北海タイムス:昭和33年(1958年)3月2日
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2011年7月10日 (日)

「北海道鉄道唱歌」の旅(1) 【炭鉱遺跡探検の巻】

はじめまして!「わださとる」と申します。
北海道民なのにペーパードライバー、ペーパードライバーなのに旅好きという困った人間なのですが、公共交通機関と自転車、徒歩、たまには誰かの車の助手席(汗)で、札幌や北海道を気ままに歩き回っています。どうぞよろしくお願いいたします!

記念すべき初めての記事は、「北海道鉄道唱歌の旅」シリーズの第1回です。
「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・」で始まる、明治時代に作られた長い長い歌、「鉄道唱歌」。実は「北海道篇」も存在し、「南の巻(函館~小樽)」「北の巻(小樽~旭川・室蘭)」の2部構成。それぞれ20番ずつ、合計40番の歌詞があります。

その歌詞に歌われている実際の風景を、一つ一つ見に行ってみようという企画です。

実は去年から少しずつ歩いています。
北海道は列車の本数が極端に少ないため、一度途中下車をしてしまうと、次の列車まで2時間も待たなければならなかったり、歌詞に「季節」を歌い込んだ部分が多かったりして、「歌詞の順番通りに回る」というわけにはなかなか行きません。

なので、どこかをピックアップしてブログでご紹介しながら、最終的には動画か何かで完成させたいと思っています。

そんなわけで、今回は「北の巻」9番に歌われている炭鉱に、一人で出かけてみました。

●北海道鉄道唱歌「北の巻」・9番

幌向原野 岩見沢
真直ぐに行けば 幾春別
幌内太と 幌内 
三炭山のありどころ

【大和田建樹作/明治40年(1907年)】

■JR岩見沢駅
岩見沢市

札幌から普通列車で45分、JR函館本線の岩見沢駅。木造駅舎をイメージしていたのですが、いつのまにかこんなに立派な駅舎に変わっていてびっくり。
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最近まで、橇を曳く馬の競争「ばんえい競馬」が盛んな街でした。

岩見沢から先の「真直ぐに行けば幾春別」だったはずの線路(幌内線)は、昭和62年(1987年)に廃止されています。ここからバスに乗り換え、幾春別まで約1時間。


■幾春別駅の跡

三笠市

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ここが、かつて幾春別駅があった場所です。今はバス停として使われています。

幾春別(いくしゅんべつ)はアイヌ語「イクスン・ペッ(向こう側にある・川)」の音訳。「いくつもの春を(家族と)別れて暮らす」出稼ぎの炭坑夫たちを表現したかのような、宛て字の文学的センスに感心させられます。

■東洋一の立坑やぐら
三笠市

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幾春別駅跡からほど近い、奔別(ぽんべつ)炭坑の立坑跡。
東洋一の立坑櫓だったそうで、かなりの大きさ。迫力があります。

■山の中の廃墟
三笠市

 

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この付近で、昭和51年(1976年)に「エゾミカサリュウ」という恐竜の化石が発見され、日本国内に「恐竜ブーム」を巻き起こしました。三笠市は、炭鉱が消えた今、「恐竜の町」として売り出しています。

目指す幾春別炭鉱は、博物館裏の川沿いにあります。
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この山道を上がったところが、立坑跡。ひどいぬかるみで、スノートレーを履いて来て正解でした。

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ハッとするようなたたずまいです。

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大きな建物が残っています。
大自然に埋もれつつある建物を、ちょっとだけのぞいてみましょう。

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内部の機械類は撤去されています。
ここでは、大正9年(1920年)から昭和32年(1957年)まで採掘が行われていました。

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このタンクのような物は何でしょう?

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大自然の復元力の偉大さと、人間の無力さを思い知らされます。

■幌内炭鉱へ
三笠市

幾春別からバスで三笠市街に戻り、市営のマイクロバスに乗り換えて、幌内地区へ。

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北海道らしいマンサード屋根の廃屋。

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iPhoneで音楽を再生すれば、熊よけの鈴の代用になるので便利です。

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見えてきた、幌内炭坑の廃墟。古代遺跡を見ているようです。
「幌内炭鉱」は平成元年(1989年)閉山。わりと最近まで使われていたんですね。わずか23年で、もはや自然に呑み込まれそうです。

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幌内炭坑への引き込み線の鉄橋。
かつて、列車に満載された石炭が、ここから全国へ向かったのでしょう。

■北海道最初の鉄道
三笠市

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次のバスまで時間があるので、近くにある「鉄道記念館」にも寄ってみました。

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北海道で最初の鉄道は、ここから札幌を経由して、小樽の手宮までの区間。幌内炭鉱の石炭を小樽港に運ぶために建設されました。地図上で、札幌から岩見沢の線路をそのまままっすぐ伸ばせば、ここ幌内にたどり着くことがわかります。

久しぶりのいい天気。気温は18℃で、汗ばむくらいです。

■幌内太(三笠)駅の跡
三笠市

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三笠市の中心部に近い、旧幌内太駅(のちに三笠駅と改称)の跡。瀟洒な旧駅舎が保存されています。

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ホームに立つと、今にも列車が動き出しそうですね。

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恐竜とアンモナイトの化石が、今の三笠市のシンボルです。
ところで、この「三笠」という市名、北海道には珍しく、純日本語地名です。開拓時代にここにあった「空知集治監(監獄)」の囚人たちが、周囲の山が故郷・奈良の三笠山に似ている、と懐かしんだことが由来なんだとか。

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いやいや、何とも言えないこの雰囲気、大好きです!面白い人に出会えそうな気がします。次は夜に来て、ふらりと入ってみたいですね。

今回はここまで。「鉄道唱歌の旅・北海道篇」は、まだまだ続きます。

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