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2011年7月17日 (日)

進駐軍専用スキー場跡(札幌・藻岩山)

札幌の都心を見下ろす、藻岩山。
「藻岩山スキー場」は、札幌っ子なら一度は滑るホームゲレンデです。

現在のスキー場が造られる前、北側(都心方向)の斜面に、「進駐軍専用スキー場」があったことをご存知ですか?

■「クリスマスまでにスキー場を造れ」

戦後間もない昭和21年(1946年)の秋、進駐軍は北海道に対し、藻岩山へのスキー場建設を命令しました。担当のウォースレーヤ大佐は「クリスマスまでに完成させなければ、沖縄で重労働だ!」と言ったとか言わないとか。

当時すでに天然記念物に指定されていた藻岩山。その季節ごとの美しさは、札幌市民の自慢でもありました。それを伐採して自分たち専用のスキー場を造らせろとは、いくら戦勝国とはいえ、あんまりです。当然、日本側としては事情を説明してやんわりと拒絶するのですが、「保安林の伐採を最小限にする」という譲歩を引き出すのが精一杯。スキー場建設はすぐに開始されました。このときに設計・監督を務めたのは、後に北海道知事になる堂垣内尚弘さんだったそうです。

これが、「進駐軍専用スキー場」の全体図です。
Photo

藻岩山山頂と、下の方にある「貯水槽(現在の水道記念館)」を目印に、現在の地図に重ね合わせてみました。
Photo_2

山頂から、都心の方向に一気に滑り降りるコースだったようです。N43°などのお洒落なレストランが建ち並ぶあたりに、スキー場のベースがあったことがわかります。20m級のシャンツェまであります。
ロッジに「将校用」「下士官用」があるのが面白いですね。

■日本最初のリフト

このスキー場で重要なことは、なんと、日本最初のスキーリフトが架設されたことです。上の図で「第1スキートウ」「第2スキートウ」とあるのが、リフトです。このようなものだったようです。
Photo_3

同時期に、長野県の志賀高原にも進駐軍用スキー場が造られ、リフトが架設されており、札幌だけが最初、というわけではありません。
記録によると、第1スキートウは高低差164m、長さ983m、2人乗りの搬器が44個設置され、1時間当たり100人の輸送能力があったといいます。支柱は、鉄材不足により木製でした。

その「第1スキートウ」の降り場が、コンクリート製の台座だけ現存しています。
藻岩山の登山道の途中にあるその台座。最初に就職した職場の先輩Iさんとお酒を飲んだ際に「一緒に見に行こう!」という話で盛り上がり、6月のある日、ついに決行することになりました。

■リフト跡へ探検開始

その日、Iさんも僕も自転車で、慈恵会登山口近くのセイコーマートで落ち合いました。
飲み物や虫除けスプレーを購入し、登山口へ。リフト跡までわずか1kmあまりの往復ですが、念のため(?)、登山口のお地蔵様に道中の安全を祈願します。
Photo_4

登山口の駐車場はなんと満車。登山道を大勢の人が歩いているのが見えます。

ちなみに、藻岩山の登山道には33のお地蔵様があります。
一つ一つが、西国三十三観音霊場のお寺を表していて、本家のお寺と同じ御詠歌が刻まれています。山頂まで登れば、三十三霊場の巡礼と同じご利益があると言い伝えられています。
現代の登山者にとっては、「第17番まで来たから、あと半分だ!」というような、道程の目安として親しまれています。

Photo_5
第1番 【青岸渡寺】
補陀洛(ふだらく)や 岸うつ波は三熊野(みくまの)の
那智のお山にひびく滝つ瀬

Photo_6
第3番 【粉河寺】
父母(ちちはは)の 恵みも深き粉河寺(こかはでら)
仏の誓ひ頼もしの身や

スキー場造成で、これらのお地蔵様が壊されなかったことは、不幸中の幸いでした。

Photo_7Photo_8

登山といっても、藻岩山の登山道はとてもきれいに整備され、登り初めなどは、山というよりも「公園」のようです。
登山道の周りは、手付かずのままの自然が残されています。生活の場からこんなに近くに、これほど豊かな森があることを、札幌っ子はもっと誇りに思っていいような気がします。

Photo_9

すぐ下にある僕の母校「旭丘高校」で、応援団の練習をしている声が聞こえて来ます。実は僕も、高校時代は応援団員でした。「あの掛け声のとき、手足は確かこんな動きだったな」と、応援のマネゴトをする余裕がまだありました。

しかし、あっという間に余裕は消え去りました。次第に無口になり、何度も足が止まり、Iさんをお待たせすることが多くなって来ました。

■コンクリート台座に到着

子供のころ、学校の遠足で何度も登頂したはずなのですが、39歳・103kgの身体は悲鳴を上げ、膝はもう「大笑い」しています。
いよいよ限界に近づいた頃、やっと目的の場所に到着しました。

Photo_10

Photo_11

登山客の間で通称「休憩所」「砲台跡」などとこ呼ばれているのコンクリートの構造物こそ、日本最初のスキーリフトの降り場の跡です。

台座から少し離れて、大きな金具が付いた壁があります。

Photo_12

ここからコースが始まっていたはずです。よく見ると、頭上は周囲の木々の枝で覆われているものの、コースだったあたりは笹薮で、大きな樹木はありません。

登山客の多くはここで最初の休憩をとっているようです。
家族連れやカップルが、「ここは戦争中の砲台跡だ」などと話しているのが聞こえます。

藻岩山に高射砲が設置されていてもおかしくはないので、「ここに砲台があった」というのもあながち間違いとは言えないのかも知れません。でも、目の前のコンクリート台座は、設計者もはっきりしており、誰が何と言おうとリフト降り場であることは確かです。

■ここにスキー場を造った「もう一つの目的」は?

ここでIさんと話し合ったのは、進駐軍がここにわざわざスキー場を造らせた「もう一つの目的」についてでした。
藻岩山は、札幌を一望できる観光地として有名です。このことは、見方を変えれば、軍事的に重要な拠点だということにもなります。もし、進駐軍への反抗を試みるテロリストがこの山中に潜んだとしたら、進駐軍側にはとても厄介なことです。つまり、藻岩山そのものを進駐軍が「制圧」するための拠点として、道庁と摩擦を起こしてまでスキー場を造らせたのではないか、という結論にいたりました。まあ、想像の域を出ないのですが・・・。

同行のIさんは、このまま山頂まで行きたいというオーラを発しています。でも、僕は情けないことに、すでに体力の限界です。Iさんごめんなさい!と思いつつ、頑として下山させていただきました。次回こそは・・・頑張って登ります!

下山途中にも、かなり多くの人とすれ違いました。藻岩山登山がこれほどの人気だとは驚きです。

■進駐軍専用スキー場、その後

「進駐軍専用スキー場」は、進駐軍撤退後「札幌スキー場」と名を変え、競技会などで使用されました。昭和33年(1958年)のスキー国体の会場となったのを最後に使用が禁止され、裏側の斜面に新設された現在の「藻岩山スキー場」にバトンタッチしたのでした。

廃止6年後の昭和36年(1961年)の航空写真です。

1961

まだ、スキーコースやリフト降り場がはっきりと確認できます。

こちらは、平成20年(2008年)の航空写真。

2008

つくづく、自然の回復力は偉大だと思います。上空から見る限り、どこにスキーコースがあったのか、もうまったくわかりません。
ただ、山頂からロープウェイ山頂駅付近までの直線部分だけは、旧「進駐軍専用スキー場」の中で唯一、その後も存続したコースで、平成17年(2005年)まで「藻岩山スキー場」の「山頂コース」として転用されていました。この新しい航空写真にも、はっきり残っています。

それにしても、登山者たちから誤解されまくっているあのコンクリート台座。
日本で最初のスキーリフトの跡として、説明板のようなものを市で設置できないか、と思います。

【参考資料】
コンサルタンツ北海道 第112号:道路情報館 真田英夫氏「堂垣内尚弘先生の足跡を訪ねて(ii)-札幌スキー場の建設-」
北海タイムス:昭和33年(1958年)3月2日
ほか

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コメント

こんにちわ。中学校の時のスキー遠足で、うまい人は、たぶんこのコースを通っていたと思います。もっとも、30年以上前の話ですが。小学校、中学校の遠足と言えば、藻岩山登山だったので、こんな歴史があったとは。
全然、論点が違いますが、伏見中学校のスキー授業は、ロープウェイ駅の近くのお寺の坂でした。重い硬いスキーブーツが歩いて現地まで行って足で登って滑るという授業でした。小学校から高校まで滑るより登るのがスキー授業となんとも非効率的な授業で、全く楽しくなかったです。今は、どうなのかな。

幸永さん、ありがとうございます!
30年以上前ならば、もしかしたらまだ旧コースの一部を滑ることができたのかも知れませんね。とても興味深い証言です。
スキー授業、今はどうなんでしょうね?
私は柏中だったのですが、豊平川の河川敷で「歩くスキー」でした。高校は旭丘だったのですが、旭山記念公園で、やはり歩いて登って滑りましたよ。
最近の学校は、年に2回くらいバスでスキー場に行き、毎週のスキー授業は行わない、という話も聞いたことがあります。

同行者が心優しいI様で良かったですねぇ。
これが明治OBのM氏(現衆議院議員)とか中央OBのK氏(憲政史研究家・大学講師)とかだったら
「和田。何言ってんだよ。最後まで登るんだよ」
「いやいや、ここで初志貫徹するのが和田殿でござるよ」
…などと言われて下山させてもらえなかったでしょうね(^^)

はじめまして。
今日始めてこのサイトにたどり着きました。こんな面白いシリーズ連載があったんですね。
素敵です。

私は幌西小学校・伏見中学とこの界隈で40数年前を過ごしました。この頃の北斜面は街から見ても明らかに木がまばらでした。そこに進駐軍のスキー場があったということは聞いていました。そのなごりなのか浄水場と言われていた今の地崎バラ園下の住宅街は全てのっぱらで小学校時代のスキー授業場所でした。学校からスキーを担いで歩いていったんですよね。その後温泉山といわれていた旭山公園下になりましたが。
浄水場に家が建つと聞いた当時は誰がこんな所に住むのかと思いましたが、今や高級住宅街だそうですね。
バラ園の奥の方にはアメリカンスロープという名前が残っていた記憶があります。
北斜面を降りられたら当時は英雄でした。かなり苦労しながら何回か降りたことがあります。
このサイトには懐かしい話題がたくさんありますね。
楽しませて頂きます。ありがとうございました。

貴重な資料をありがとうございました。1941年札幌生まれの小生、自宅からもコースの雪面、夏には刈り取られたコースが見え冬には白いスキー場雪面がはっきり見えました。最近お年取られた方でも砲台跡などとブログ記入されていたり、スキーリフト台座跡は一説だなどの記入があって残念に思っておりました。貴殿の載せられた貴重な図面と写真など証拠資料は私は初めて接しましたので大変感じ入りました。感謝申し上げます。 2012年10月5日。

はじめまして。
藻岩山出身のスキーヤーです。
単純に日本でスキーリフトが最初に出来たのはいつかとネットサーフィンしたら辿り着きました。
貴重なアップをありがとうございます。
2020年東京オリンピックが決定し、札幌も再度オリンピック招致の検討を始めましたね。
是非、活用させていただきます。

小学生の頃は、よく北斜面を必死の思いで滑り降りてきました。というのも、そこを滑らないと自宅に戻れなかったからです。伏見稲荷神社の階段も、これまた必死の思いで直滑降し、スケーティングをすると家に帰れたのです。
途中にジャンプ台があったのですが、私の周りの者は覚えていないようです。今回の地図にシャンツエと載っており、夢でなかったとホッとしました。

はじめまして。
古いジャンプ台のことを調べていてたどり着きました。
1961年の航空写真を見ると、この時点ではまだジャンプ台のアプローチのヤグラも残っていたのですね。

真駒内の緑小学校に通い、「虹と雪のバラード」で集団表現をしていました。
藻岩山の林間コースを降りるとバス停で、そこから帰宅できました。
ウサギ平が憧れでした。
懐かしいなーH棟マンション

札幌のスキーを検索し偶然このサイトに届きました。4~11歳、札幌五輪の少し前まで藻岩山近くに住んでいました。浄水場横の斜面でスキーを滑りましたが、米軍スロープ跡だったとは、このサイトで初めて知りました。近隣では「藻岩スロープ」と称し、牧場があった記憶があります。ある秋、友達と平和塔裏山林で栗拾い中、偶然に斜面に張ったイカダのような謎の物体に出くわし、帰宅後に父に話すと、父は「米軍のジャンプ台だろうな。まだ残っていたのか。」と語っていた記憶がなぜか鮮明に残っていて、このサイトで事実が分かりました。記憶は実に50年前のことです。以後、首都圏で生活し、サラリーマンとして札幌には時折出張があったのですが、いつもトンボ返り。定年退職を機に昔を振り返る余裕ができました。その頃の我が家、小学校、藻岩スロープ、謎のジャンプ台、今年の秋にゆっくり現地を確かめる予定です。

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