2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
フォト

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

鉄道唱歌

2012年2月27日 (月)

「札幌市電唱歌」 (1)【西4丁目→西15丁目】

まず、1枚の写真から。

22

ここは僕の家の前です。

線路の上には、黄色い木造の電車。それを歩道から見ている、帽子を被った子供が僕です。昭和52年(1977年)の札幌市営交通50周年を祝って、開業当時の貴重な車両が走行したときの写真です。

この木造電車が走った1週間、僕は毎日4回ずつ欠かさずに見送りました。やがて運転士さんが僕のことを覚えてくれて、僕の前で一時停止してくれるように。 最終日には、僕が描いた電車の絵を、運転士さんが電車を停めて受け取ってくださいました。電車だけではなく、道路を走る車も停まってくれました・・・。


あれから35年。

電車が大好きな5歳児は、電車が大好きな39歳「ブラサトル」になりました。

■いま、札幌市電が熱い。 
その昔、札幌市内を縦横無尽に軌道が敷かれ、市内交通の花形だった市電も、地下鉄開通と交代するように縮小された結果、わずか8kmあまりの1系統を残す のみ。
Photo

少し前までは「時代遅れの乗り物」といわれ、クルマ社会からは邪魔者扱いされ、全面廃止さえ検討されたこともありました。
M101

それが最近になって、環境や人へのやさしさから市電が見直され、ついに、路線延伸と新車両の導入が決定!まずは「欠輪環状線」だった現行路線を2〜3年後にループ化。昭和48年(1973年)に廃止された駅前通の市電軌道が、40年ぶりに復活することになりました。

いま、札幌で最も熱い乗り物といえば「市電」です。

僕はこの感激を何とかして形にしたいと一念発起。そこで、明治時代に作られた日本一長い歌、「♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」の出だしで有名な「鉄道唱歌」(このブログでもおなじみですね!)になぞらえ、札幌市電沿線の風景や歴史をまとめた
「札幌市電唱歌」を作りました。

現在、市電が走るのは、札幌でも旧市街中の旧市街といわれるエリア。札幌の成り立ちが凝縮されています。古いものと新しいものとが混在する不思議な風景の中を、「札幌市電唱歌」と一緒に散歩に出かけましょう。

Photo_2

和田哲 作「札幌市電唱歌」 

1 【西4丁目】 
4プラ前の十字街
雨音消えて 雪となり
西四丁目の電停で
乗り込む電車の暖かさ


■4丁目十字街 
市電の起点があるのは、4丁目プラザ、三越、パルコ、日之出ビルに囲まれたスクランブル交差点。
4

メインストリート同士がクロスする、札幌で最も華やかな交差点です。昔は市電の軌道もここで交差していました。札幌の交差点には基本的に名前がないのですが、ここは古くから「十字街」と呼ばれていたそうです。最近はあまり聞きませんね。


2 【西4丁目】 
札幌開府(かいふ)の その初め
大友堀(おおどもぼり)と直交し
原野に引かれし この道ぞ
都市の基(もとい)と なりにけれ


■大友堀(創成川)と銭函道(南1条通) 
電車は、南1条通を西に向かいます。この道、現在は国道でも道道でもありませんが、札幌の建設が始まったころは、大動脈とも言えるとても重要な道路だったのです。
Photo_3


江戸時代の終わり、幕府の役人として現在の東区に入植した大友亀太郎は、用水路「大友堀」を掘削しました。これが札幌に最初に引かれた南北方向の直線であり、後に創成川となりました。
0


明治2年(1869年)に開拓判官として札幌の原野に入った島義勇は、この大友堀を札幌の都市計画の基準としました。銭函への曲がりくねった街道を整備、 札幌付近を東西の直線道路とし、大友堀と「直角」に交差させました。それが現在の南1条通の始まりです。そして、その直角交差点=創成橋こそが、札幌の 「碁盤の目」の最初の「一目」となったのです。
1


3 【西4丁目】 
北に横たう 大通
ライラック咲く 春の午後
ビールに酔うは 夏の夜
雪の城建つ 冬の朝


■大通公園 
札幌にあって、日本の他都市にないもの、それが大通公園です。「広場」が都市の中心になっているのは、ヨーロッパの都市に似ていますよね。
Photo_4


そもそもは、町人地(南側)の火事が官庁(北側)に延焼しないようにするための「火防線」として設置された、前代未聞の50間幅の道路でした。「分断」のために作られた場所が、いま人々の「交流の場」になっているというのは面白いことです。


4 【西8丁目】 
レトロとモダンが入り交じる
西八丁目を過ぎ行けば
サンキチさんと人の呼ぶ
三吉神社は右にあり


■かむほどに味が出る界隈 
4丁目から8丁目は、古い建物と新しい建物、デジタルとアナログ、カルチャーとサブカルチャー(?)が同じ場所で仲良くしているような、不思議な味わいの街です。


東急ハンズの2軒隣、築50年の古いビル。アート系のさまざまな人が集う活動拠点「OYOYO まち×アートセンターさっぽろ」では、僕もたくさんの人と出会うことができました。ほかに、古本とビールのお店(!)もあります。
Photo_5


市電に乗る人ならきっと誰もが知る「人形屋佐吉」。

いつも閉まっている印象があるのですが、油断すると、たまに開いています。
Photo_6

ところどころに残る「昭和」。
Photo_7


「声」「声」「声」・・・の看板でおなじみの純喫茶「声」は、映画「探偵はBARにいる」のロケにも使われました。雰囲気ありますね!
Photo_8


■サンキチさんが晴れなら札幌神社は雨 
西8丁目の電停からほど近い「三吉神社」。正しくは「ミヨシジンジャ」という名なのですが、市民は親しみを込めて「サンキチさん」と呼びます。
Photo_9


5月15日が例大祭。境内にびっしりと露店が並びます。また、「サンキチさんが晴れなら札幌神社(北海道神宮)は雨」といわれ、ちょうど1ヶ月後の北海道神宮例大祭(札幌まつり)と「天候が真逆になる」というジンクスが、札幌っ子の間では昔から有名です。


Photo_10
5 【中央区役所前】
 
円柱型のホテル建つ
区役所前からほど近く
ミュンヘン市との友情を
伝えるドイツのマイバウム


■マイバウム 
マイバウム(maibaum)は、ドイツ語で「5月の木」という意味で、高い木にさまざまな飾りを付けたもの。ドイツでは5月の祭りにマイバウムを飾り、その周りで歌や踊りを楽しむ慣わしがあります。


大通公園(11丁目)には、高さ25mの大きなマイバウムのモニュメントがあります。
Photo_11
これは、オリンピックとビールが縁で姉妹都市になったミュンヘン市から寄贈されたもの。昭和51年(1976年)に設置され、古くなったため平成12年(2000年)に再建されました。


■現存する札幌最古の鉄筋コンクリート建築 
西13丁目でひときわ存在感を醸し出すのが、三誠ビル。
Photo_12
大正13年(1924年)に建てられた、現存する札幌最古の鉄筋コンクリートの事務所ビルです。シンメトリーのデザインと、窓周りの細かい装飾が、重厚な雰囲気を醸し出しています。元々は旧薮商事の事務所でした。1階にはカフェ、2階にはゆっ たりできる古本屋さんが入居しています。


■ショッピング一条 
この建物の風格に、まずしびれます。
Photo_13

この日、建物内はたまたまお休みでしたが、ちゃんと営業しています。ここはいわゆる「市場」。建物内部には、個人商店が並んでいます。スーパーマーケット が普及する以前には、よく見かけた店舗です。昔は「一条市場」と呼ばれ、あの「二条市場」に次ぐ歴史があるんだそうです。

6 【中央区役所前】 
真直ぐに見ゆる山肌に
大倉山の シャンツェあり
カンテの下に誇らしく
五輪マークは輝けり


■大倉山シャンツェが正面に 
電車が向かう正面やや右寄りに、大倉山シャンツェが見えます。
Photo_14
夜はライトアップされるので、闇の中に浮かび上がって見えます。これほど都心から近いシャンツェは、世界的にも珍しいのだとか。


7 【西15丁目】 
円山行きと西線の
分岐も今はなけれども
曲がる軌道の周りには
医療機関の数多し


■円山行きと西線の分岐跡 
南1条西15丁目では、昭和48年(1973年)まで、西方向に直進する一条線(円山公園方面行き)と、南に曲がる山鼻西線とが分岐していました。歴史の 古い円山行きの方が「本線」、山鼻西線の方は「ローカル線」のような扱いだったのですが、その「本線」の方が先に消えてしまいました。


大正から昭和初期にかけて、市民の気軽な行楽地と言えば円山周辺でした。円山公園の桜、三角山でのスキー、界川にあった「札幌温泉」などに向かう乗客で、電車は満員だったといいます。


■病院城下町 
西15丁目周辺には、札幌医大病院、NTT札幌病院、中村記念病院を中心に、大小さまざまな医療機関が集積しています。
Photo_15
さらに、調剤薬局はもちろんのこと、お見舞いの需要からかお菓子屋さんも多く、さながら「病院城下町」のようです。


152
電車はここから左に曲がり、藻岩山の麓を目指して南下します。


今回はここまで!

「札幌市電唱歌」との散歩は、まだまだ続きます!

<

by 無料ブログパーツ製作所
[PR]

2011年11月12日 (土)

「北海道鉄道唱歌」の旅(3) 【羊蹄山の巻】

早朝6時12分に札幌駅を発車する、小樽方面・然別(しかりべつ)行き普通列車。小樽の先まで直通運転している、今では1日にたった1本になってしまった定期列車です。
Photo

見慣れた電車ではなく、ローカル線の香りがする2両編成の気動車が、エンジンを吹かしながらトコトコと走ります。


■「函館本線」

「函館本線」は、小樽を境に、同じ路線とは思えないほどガラリと変わります。札幌-小樽間は最新式の電車が頻繁に往復しているJR北海道のドル箱路線。一方、小樽から先は非電化の単線で、1日わずか数本しか列車がありません。
Photo_2

小樽経由の「函館本線」が札幌-函館間のメインルートだったのも、今は昔。函館行きの特急列車は、千歳や苫小牧の方を経由するようになりました。それでも、函館本線には長大なホームや広い敷地をもつ駅が多く、かつて北海道の大動脈として華やかだった時代の名残があります。

然別駅。この長いホームに停まるのは、1両か2両編成の気動車が1日数回だけ。
Photo_3 Photo_4
でも昔は、たくさんの旅客を乗せてSLに牽引された長い列車や、ニシン・木材などを満載した貨物列車で賑わっていたのでしょう。

函館本線には今でも、他のローカル線とはどこか違う、「風格」が漂っています。


■蝦夷富士・羊蹄山

非電化の路線には邪魔な架線や支柱がないので、車窓からの眺めは電化路線よりも数段上です。
Photo_5

エンジンを吹かしながら、ゆっくりと峠を登る気動車。狭い谷と短いトンネルが繰り返される風景に息苦しくなってきたころ、突然、パッと視界が開け、目の前に羊蹄山が現れた瞬間、思わず震えます。
Photo_6

  
●北海道鉄道唱歌「南の巻」・14番

  
仰ぐ雲間に 雪白く
  
積もるは蝦夷富士(えぞふじ)羊蹄山(ようていざん)
  
登れ人々 陸奥湾(むつわん)
  
一目に見ゆる高嶺(たかね)まで
  
  
【大和田建樹作/明治39年(1906年)】

「鉄道唱歌」が作られた明治時代、ここは当然、函館-札幌間のメインルートでした。
大和田建樹は函館側から旅をしているので、「羊蹄山が見える瞬間」が札幌側から来た僕とは少し違います。それでも、彼はよほど感動したらしく、14~17番を使って、羊蹄山とその麓の様子を描いています。


余談ですが、「鉄道唱歌」の歌詞には、大和田建樹の個人的な興味が色濃く反映されています。有名な「東海道編」でも、かなりの区間を大胆に飛ばしている一方、鎌倉は6~9番、京都に到っては46~53番まで使ってじっくりと歌われています。

高さ1,898mの羊蹄山は、富士山によく似ているので蝦夷富士(えぞふじ)とも呼ばれます。
Photo_7

鉄道唱歌の歌詞を忠実にたどるならば登頂し、山頂から見える陸奥湾をカメラに収めるべきなのですが、以前、藻岩山の200m地点に登るだけで息絶え絶えになったという体たらく。今回は許してください・・・。


■なぜ「ヒツジのひづめ」なのか?

ところで、なぜ「羊蹄=ヒツジのひづめ」なのでしょうか?

アイヌ語で「マッカリ・ヌプリ」と呼んでいたこの山に、最初に付けられた和名は
「後方羊蹄山(しりべしやま)」といいました。「後方」「しりべ」と読み、「ギシギシ」という植物の中国名「羊蹄」「し」と読ませる、超難読地名だったのです。

日本書紀に、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が斉明天皇5年(659年)に蝦夷地に渡り、「後方羊蹄(しりべし)」という場所を支配したという記述があります。難解な漢字表記は、日本書紀が由来だったのですね。ただ、これが果たして史実なのか、また「後方羊蹄(しりべし)」がどの場所を指すのかは、実は今でも謎のままだそうです。

江戸時代の終わりに北海道を探検した松浦武四郎が、この付近を流れる大きな川をアイヌの人たちが「シリ・ペッ」(山の川)と呼んでいる(現在の尻別川)ことを知り、ここが日本書紀に書かれた「後方羊蹄(しりべし)」なのではないかと考えました。
Photo_25

彼はこの地を「後志国(しりべしのくに)」、その中心にあるマッカリ・ヌプリを「後方羊蹄山(しりべしやま)」と名付けました。

同じ「しりべし」でも漢字が違います。「国名は漢字二字でなければならない」という奈良時代以来の決まりがあったようで、国名は
「後志(しりべし)」、山名は「後方羊蹄(しりべし)」という、非常にややこしい状況が生まれてしまったのです。ついでに言うと、川の名前はなぜか「尻別(しりべつ)」と宛て字されたので、さらにややこしい!

国名の「後志国」は何かと目にする機会も多く、次第に人々の間に定着しました。しかし、山名の「後方羊蹄山」は、あまりにも難し過ぎて定着せず、「こうほうようていざん」と読み間違えられ、略して「羊蹄山(ようていざん)」と呼ばれたり、俗称で「蝦夷富士」と呼ばれることが多かったようです。鉄道唱歌では「蝦夷富士羊蹄山」と呼ばれ、大正9年(1920年)発行の5万分の1地形図「留寿都」には「後方羊蹄山(蝦夷富士)」と記載されています。

戦後になり、「読めない山名では困る!」と動いたのが、地元の倶知安町。読み間違いではあるもののなんとなく定着していた「羊蹄山(ようていざん)」を正式名称にするよう国土地理院に働きかけ、昭和44年(1969年)発行の地形図から書き換えられました。

「月寒(つきさむ)」→本来は「つきさっぷ」、「早来(はやきた)」→本来は「さっくる」など、読み間違いが定着して正式名称になってしまった地名が多い北海道。羊蹄山もその一つだった、というわけです。



■倶知安町

  
●北海道鉄道唱歌「南の巻」・15番

  裾野は倶知安(くっちゃん)の大原野
  ヲンコ 椴松(とどまつ) 楢(なら) 桂(かつら)
  林は天を 打ち掩(おほ)
  面積ほとんど 三十里

  
●北海道鉄道唱歌「南の巻」・16番

  ここを開きて 耕して
  作りし村は 年々(としどし)
  栄えて朝夕 立ちまさる
  煙あまねく 民(たみ)豊か

  
【大和田建樹作/明治39年(1906年)】

羊蹄山麓の中心都市、倶知安(くっちゃん)町。
アイヌ語「クッ・シャン・イ」(管のようなところを流れ出る場所)、または「クチャ・アン・ナイ」(狩り小屋のある沢)の音訳です。
Photo_8

羊蹄山に磨かれた地下水は、日本一おいしいと言われています。どうやら「日本一おいしい水」は日本全国にあるようです。
Photo_9

駅前には、平成103年(2091年)に掘り出すというタイムカプセルが。埋めたのは平成5年(1993年)ですから、スーパーファミコンやPCエンジン、「ロマンスの神様」のCDあたりが収められているのでしょうか?
Photo_10

倶知安駅周辺は整然とした都会という印象。札幌のような碁盤の目の市街地に、条・丁目が割り振られています。とても大きな総合病院があり、ニセコのスキー場で怪我をするとここに運ばれます。そう言えば今年の2月に、友人を運んだばかりです。
Photo_11

市街地の外に一歩出てみると、そこは今でも北海道屈指の農業地帯。じゃがいもの王国です。
Photo_12

豊富な水と肥沃な土壌に恵まれた倶知安は、おもに徳島県からの移民たちが開墾しました。
Photo_13 Photo_14

天を打ち掩(おお)う林も、明治時代から変わっていません。
2 Photo_15

豊かな森と川に囲まれた倶知安町やニセコ町は、アウトドアの聖地。来年の夏こそは、尻別川を豪快に下ってみたいと思っています。カヌーは難しそうですが、みんなでラフティングというのも楽しそうですね!
Photo_16



■雪に埋まる線路

倶知安の短い夏が過ぎ・・・
Photo_17

秋が過ぎ・・・
Photo_18

そして冬が来ました。
Photo_19

  
●北海道鉄道唱歌「南の巻」・17番

  されど秋過ぎ 冬の来て
  北風 雪を吹くときは
  汽車行く道さへ 埋(うず)もれて
  寒さに泣くは 此(この)附近

  
【大和田建樹作/明治39年(1906年)】

ひたすら、白の世界です。
Photo_20 Photo_21

倶知安・ニセコは、北海道の中でも特に雪が多いことで知られています。「東洋のサンモリッツ」と呼ばれ、スキーヤーやボーダーにとっては天国のようなところです。
Photo_22

ここ数年、オーストラリアの人がずいぶん増えました。口コミで人気が広まり、真夏の南半球から真冬の北海道に、パウダースノーを求めてたくさんの人がやって来ます。平成18年(2006年)には、東京・名古屋・大阪をさしおいて、何と倶知安町が住宅地地価上昇率日本一に躍り出たこともありました。

でも、それはあくまで現代の話。
猛烈な寒さと雪は、開拓民たちを大いに苦しめました。越冬を断念して暖かい故郷に帰った人もいれば、冬の間に命を落とす人も少なくなかったと言います。
Photo_23

北海道の鉄道には、最初の頃は除雪技術がなく、線路が雪に埋まってしまう冬は運休するのが当たり前でした。
Photo_24
明治中期頃には、貨車に除雪用の前すきなどの装置を取り付けた「雪かき車」が使用されていた記録がありますが、本格的な除雪車の導入は明治44年(1911年)になってから。アメリカのラッセル&スノープロウ社からユキ1形(単線用ラッセル車)を購入してからでした。

寒さに泣いた明治の人たちは、寒さと雪が町に豊かさをもたらす時代が来ることを想像していたでしょうか?

今回はここまで。「鉄道唱歌の旅・北海道篇」は、まだまだ続きます。

by 無料ブログパーツ製作所
[PR]

2011年10月16日 (日)

「北海道鉄道唱歌」の旅(2) 【港町物語】

「鉄道唱歌」が作られたのは明治時代。
子供たちが楽しく地理を学べるように、というのがそもそもの狙いだったそうで、沿線の地理や歴史、伝説、産業などがふんだんに歌い込まれています。そんな事情からか、ときには鉄道線路からかなり離れた地名が現れることがあります。

      

     ●北海道鉄道唱歌「南の巻」・7番

    馬車の便ある 本郷の
    十四里西に 江差あり
    岩内 寿都
(すっつ)と 諸共に
    北海屈指の 良き港


      【大和田建樹作/明治40年(1907年)】

道外の方には聞き慣れない地名ばかりですが、「本郷(渡島大野)」「江差」「岩内」「寿都」は、お互いにかなり離れています。
Photo_26

北海道の鉄道網は、最盛期に比べるとずいぶん寂しくなってしまいました。でも、長距離バスが意外に充実しているのも北海道の特徴。ありがたいことに、僕のようなペーパードライバーでも、時刻表と首っ引きで計画さえ練れば、道内のほとんどの場所にたどり付くことができるというわけです。
そんなわけで、「北海屈指の良き港」の104年後を歩いてみました。

■間もなく大変身する、旧「本郷」駅
北斗市

函館本線の七飯と大沼の間にある、渡島大野駅。
104年前に「本郷」と呼ばれ、江差行きの馬車が出ていたのはこの駅です。

Photo_2

現在、駅前からは函館市内方面へのバスが出ているだけ。江差への交通の起点は、函館駅と八雲駅に変わりました。このあたりは道南屈指の農業地帯で、雄大な田園風景の中に80年代ペンション風(?)の可愛らしい駅舎がポツンと建っています。

しかし、この駅は間もなく化けます。
なんと、2015年(予定)の北海道新幹線函館開業で、この渡島大野駅が終着駅「新函館」になるのです。
これがその完成予想図。大出世ですよね。

Photo_3

その北海道新幹線。新函館から札幌の延伸は、どうやら絶望に近い情勢です。僕個人としては、新函館が終点のままでよいと思っています。地域の「交通弱者」や、貧乏旅行の若者にとって大切な足である在来線を守りたいのです。函館が「通過駅」ではなく「終着駅」になることで、本州からの人の流れが増え、札幌と肩を並べる大都市になるのも面白いですよね。


■蝦夷地の宝、江差港

江差町

函館から普通列車で約3時間、JR江差線の終点が江差駅です。
Photo_4

江差線は、鉄道唱歌から29年後の昭和11年(1936年)に全線開通。それまでの馬車輸送に代わりました。戦後は赤字路線となりましたが、途中の木古内駅までの区間が、青函トンネルに繋がる大幹線になっているため、廃止されずに生き残った路線です。2015年の新幹線開通後は、おそらく廃止されてしまうでしょう。

「えさし」という地名は、北海道と東北にいくつかあります。道南の日本海に面した「江差町」、道北のオホーツク海に面した「枝幸町」、岩手県奥州市の「江刺地区」がそれで、いずれもアイヌ語「エサウシ」(頭を海・川に突き出しているところ)の音訳だと言われています。

これが江差の全景。「鴎島」と呼ばれる陸繋島が、本土から海に向かって突き出すような地形。まさに「エサウシ」です。
Photo_5

首都圏の方は江ノ島を思い浮かべ、フランスの方はモン・サン・ミッシェルを思い浮かべそうです。そういえば、函館市もこんな形をしていますよね。
Photo_6

江差は、江戸時代から和人が住んでいた港町。
Photo_7

ニシン漁や北前船の交易で、「江差の五月は江戸にもない」といわれるほどの繁栄ぶりだったといいます。
その名残を感じさせるのが、海の守り神「姥神大神宮」。
Photo_8

そして、北海道最古の祭り「姥神大神宮渡御祭」。
Photo_9

毎年8月9日〜11日の3日間、13基の豪華な山車が練り歩きます。江差出身の人は、正月ではなくこの祭りの日に帰省するそうです。7日ごろから江差の人口が急増しはじめ、10日、11日の両日には、各家庭の人数は数倍にも膨れあがり、久しぶりに若者が目立つようになります。近隣の町まで含め、旅館という旅館はすべて満員に。家々では豪勢なごちそうが大量に用意され、「結構なお祭りですね」という合言葉(?)さえ言えば、見ず知らずの家に上がり込んで宴会に参加できるのだとか!?

姥神大神宮の界隈には、かつての繁栄を伝える建物が残っています。
Photo_10

空気を読んだ北海道新聞社の新しい建物、GJです。
Photo_11

歌うのが恐らく日本一難しい民謡「江差追分」。
Photo_12

こんな歌詞がありました。

 蝦夷の前浜 鰊が群来(くき)て 勇む舟子の 大漁節
 曳けや浜から 黄金が上がる 黄金千石 二千石

そんな江差町も、漁業不振や若年層の町外流出で、人口は最盛期の3分の2。過疎地域の指定を受けています。


■あなどれない奥深さ、岩内港

岩内町

アイヌの人たちが「イワウ・ナイ」(硫黄の川)と呼んでいた岩内町。
Photo_13

母が昔、岩内の中学校で教育実習をしていたと聞いたことがあります。

そんな、因縁浅からぬ岩内へは、札幌駅のバスターミナルから「高速いわない号」で向かいました。本数も多く、予想以上に便利。小樽駅前からは補助席まで満員になり、岩内にこれほどの集客力があるのかと驚いていたら、ほとんどの乗客が余市で降りました。なるほど。

岩内に通じる鉄道は、昭和60年(1985年)に廃止されました。航空写真を見ると、かつての線路跡が今でもはっきりとわかります。
1966_2

2011_2

かつて駅だった場所が、バスターミナルと道の駅になっていました。
Photo_14

岩内漁港。ホッケやヒラメがよく上がるそうです。
Photo_15

残念ながら、港の食堂はお休みでした。
Photo_16

道の駅のすぐ隣に、有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」のモデルにもなった、岩内出身の画家・木田金次郎の記念館があります。
Photo_17

岩内の風景を、ゴッホを思わせる大胆な筆致で描いた油絵には引き込まれました。バス出発までの時間つぶしのつもりで立ち寄ったのですが、とんだ心得違いでした。いつか、この美術館にじっくり浸りに行こうと思います。

また、なぜか夏目漱石が本籍を置いていたり、中島みゆきが子供の頃住んでいたり。岩内は、話のネタに事欠かない港町でした。

■弁慶岬がある、寿都(すっつ)港
寿都町

岩内から、寿都行きのニセコバスが出ています。
Photo_18

ガラガラのバス(失礼)で思い切り手足を伸ばし、日本海を眺めながら、1時間8分の優雅な旅。

昔、父の運転する車でこのあたりを走ったときには、狭いトンネルが多く、対向車にぶつかりそうで怖かった印象がありますが、今はかなり改良されているようです。
Photo_19

寿都のシンボル、風力発電の巨大風車が見えてきました。
Photo_20

バスターミナルは、岩内のそれと比べるとやや地味。
Photo_21

寿都はアイヌ語「シュプキ・ペッ」(矢の材料にする茅がある川)の音訳。和人の入植後は、ニシン漁で栄えた漁港でした。
Photo_22

大正9年(1920年)には、国鉄函館本線の黒松内駅から寿都までの私鉄「寿都鉄道」が開通。ニシンの輸送だけではなく、旅客輸送も大いに繁盛し、最盛期には年間31万人もの乗客を運んだといいます。ニシン漁の季節には、ニシンの脂で列車がスリップしたというエピソードも。

戦後、ニシン漁の衰退や鉱山の閉山などが相次ぎ、昭和43年(1968年)の豪雨で路盤が流されてしまったのを最後に運行を休止、寿都鉄道はそのまま廃止されてしまいました。

その後、かつて漁師たちを悩ませた全国有数の強風「だし風」を逆手に取り、全国で初めて、自治体として風力発電に取り組み始めました。さらに、風車の製造過程で出る副産物である製鋼スラグと腐葉土の混合物で作られた人工藻礁により、海の環境を再生させ、昆布やウニなどの漁業をも活性化させようとしています。

道の駅「みなとま〜れ寿都」。
Photo_23

北海道は道の駅がとても充実しています。全国に道の駅は977ヶ所ありますが、その1割以上の112ヶ所が北海道にあるそうです。

ニシン漁で繁栄した時代、魚油を取り出すために大量のニシンを煮た「ニシン釜」が展示されています。
Photo_24

さらに、寿都市街から少し離れた岬へ。
このシルエット、そう、弁慶です。
Photo_25

この「弁慶岬」には、源義経と弁慶が逃れてきたという言い伝えがあるのです。
その言い伝えによれば、奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していました。弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って海尊の到着を待ったものの、ついに海尊軍団の船影を見ることはできませんでした。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことをいつしか「弁慶岬」と呼ぶようになったのだそうです。

でも、実際の所は、アイヌの人たちがこの岬の先端(岩が裂けたように見える)を「ベルケイ」(裂けたところ)と呼んでいたのを、和人が「ベンケイ」と聞き違えた、というのがどうやら真実のようですが・・・。

寿都ターミナルから再びニセコバスに揺られ、ジャガイモ畑の中をJR函館本線の黒松内駅へ。黒松内からは汽車に乗り、途中の昆布温泉で汗を流したりしながら、小樽乗り換えで札幌に戻ったのでした。

今回はここまで。「鉄道唱歌の旅・北海道篇」は、まだまだ続きます

by 無料ブログパーツ製作所
[PR]

2011年7月10日 (日)

「北海道鉄道唱歌」の旅(1) 【炭鉱遺跡探検の巻】

はじめまして!「わださとる」と申します。
北海道民なのにペーパードライバー、ペーパードライバーなのに旅好きという困った人間なのですが、公共交通機関と自転車、徒歩、たまには誰かの車の助手席(汗)で、札幌や北海道を気ままに歩き回っています。どうぞよろしくお願いいたします!

記念すべき初めての記事は、「北海道鉄道唱歌の旅」シリーズの第1回です。
「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・」で始まる、明治時代に作られた長い長い歌、「鉄道唱歌」。実は「北海道篇」も存在し、「南の巻(函館~小樽)」「北の巻(小樽~旭川・室蘭)」の2部構成。それぞれ20番ずつ、合計40番の歌詞があります。

その歌詞に歌われている実際の風景を、一つ一つ見に行ってみようという企画です。

実は去年から少しずつ歩いています。
北海道は列車の本数が極端に少ないため、一度途中下車をしてしまうと、次の列車まで2時間も待たなければならなかったり、歌詞に「季節」を歌い込んだ部分が多かったりして、「歌詞の順番通りに回る」というわけにはなかなか行きません。

なので、どこかをピックアップしてブログでご紹介しながら、最終的には動画か何かで完成させたいと思っています。

そんなわけで、今回は「北の巻」9番に歌われている炭鉱に、一人で出かけてみました。

●北海道鉄道唱歌「北の巻」・9番

幌向原野 岩見沢
真直ぐに行けば 幾春別
幌内太と 幌内 
三炭山のありどころ

【大和田建樹作/明治40年(1907年)】

■JR岩見沢駅
岩見沢市

札幌から普通列車で45分、JR函館本線の岩見沢駅。木造駅舎をイメージしていたのですが、いつのまにかこんなに立派な駅舎に変わっていてびっくり。
01_2

02_3

最近まで、橇を曳く馬の競争「ばんえい競馬」が盛んな街でした。

岩見沢から先の「真直ぐに行けば幾春別」だったはずの線路(幌内線)は、昭和62年(1987年)に廃止されています。ここからバスに乗り換え、幾春別まで約1時間。


■幾春別駅の跡

三笠市

03
ここが、かつて幾春別駅があった場所です。今はバス停として使われています。

幾春別(いくしゅんべつ)はアイヌ語「イクスン・ペッ(向こう側にある・川)」の音訳。「いくつもの春を(家族と)別れて暮らす」出稼ぎの炭坑夫たちを表現したかのような、宛て字の文学的センスに感心させられます。

■東洋一の立坑やぐら
三笠市

04
幾春別駅跡からほど近い、奔別(ぽんべつ)炭坑の立坑跡。
東洋一の立坑櫓だったそうで、かなりの大きさ。迫力があります。

■山の中の廃墟
三笠市

 

05
この付近で、昭和51年(1976年)に「エゾミカサリュウ」という恐竜の化石が発見され、日本国内に「恐竜ブーム」を巻き起こしました。三笠市は、炭鉱が消えた今、「恐竜の町」として売り出しています。

目指す幾春別炭鉱は、博物館裏の川沿いにあります。
06

この山道を上がったところが、立坑跡。ひどいぬかるみで、スノートレーを履いて来て正解でした。

07
ハッとするようなたたずまいです。

08
大きな建物が残っています。
大自然に埋もれつつある建物を、ちょっとだけのぞいてみましょう。

09
内部の機械類は撤去されています。
ここでは、大正9年(1920年)から昭和32年(1957年)まで採掘が行われていました。

10
このタンクのような物は何でしょう?

11
大自然の復元力の偉大さと、人間の無力さを思い知らされます。

■幌内炭鉱へ
三笠市

幾春別からバスで三笠市街に戻り、市営のマイクロバスに乗り換えて、幌内地区へ。

12
北海道らしいマンサード屋根の廃屋。

13
iPhoneで音楽を再生すれば、熊よけの鈴の代用になるので便利です。

14 15
見えてきた、幌内炭坑の廃墟。古代遺跡を見ているようです。
「幌内炭鉱」は平成元年(1989年)閉山。わりと最近まで使われていたんですね。わずか23年で、もはや自然に呑み込まれそうです。

16
幌内炭坑への引き込み線の鉄橋。
かつて、列車に満載された石炭が、ここから全国へ向かったのでしょう。

■北海道最初の鉄道
三笠市

17
次のバスまで時間があるので、近くにある「鉄道記念館」にも寄ってみました。

18
19

北海道で最初の鉄道は、ここから札幌を経由して、小樽の手宮までの区間。幌内炭鉱の石炭を小樽港に運ぶために建設されました。地図上で、札幌から岩見沢の線路をそのまままっすぐ伸ばせば、ここ幌内にたどり着くことがわかります。

久しぶりのいい天気。気温は18℃で、汗ばむくらいです。

■幌内太(三笠)駅の跡
三笠市

20
21

三笠市の中心部に近い、旧幌内太駅(のちに三笠駅と改称)の跡。瀟洒な旧駅舎が保存されています。

22
ホームに立つと、今にも列車が動き出しそうですね。

23
24

恐竜とアンモナイトの化石が、今の三笠市のシンボルです。
ところで、この「三笠」という市名、北海道には珍しく、純日本語地名です。開拓時代にここにあった「空知集治監(監獄)」の囚人たちが、周囲の山が故郷・奈良の三笠山に似ている、と懐かしんだことが由来なんだとか。

25
いやいや、何とも言えないこの雰囲気、大好きです!面白い人に出会えそうな気がします。次は夜に来て、ふらりと入ってみたいですね。

今回はここまで。「鉄道唱歌の旅・北海道篇」は、まだまだ続きます。

by 無料ブログパーツ製作所
[PR]

その他のカテゴリー