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札幌

2012年2月27日 (月)

「札幌市電唱歌」 (1)【西4丁目→西15丁目】

まず、1枚の写真から。

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ここは僕の家の前です。

線路の上には、黄色い木造の電車。それを歩道から見ている、帽子を被った子供が僕です。昭和52年(1977年)の札幌市営交通50周年を祝って、開業当時の貴重な車両が走行したときの写真です。

この木造電車が走った1週間、僕は毎日4回ずつ欠かさずに見送りました。やがて運転士さんが僕のことを覚えてくれて、僕の前で一時停止してくれるように。 最終日には、僕が描いた電車の絵を、運転士さんが電車を停めて受け取ってくださいました。電車だけではなく、道路を走る車も停まってくれました・・・。


あれから35年。

電車が大好きな5歳児は、電車が大好きな39歳「ブラサトル」になりました。

■いま、札幌市電が熱い。 
その昔、札幌市内を縦横無尽に軌道が敷かれ、市内交通の花形だった市電も、地下鉄開通と交代するように縮小された結果、わずか8kmあまりの1系統を残す のみ。
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少し前までは「時代遅れの乗り物」といわれ、クルマ社会からは邪魔者扱いされ、全面廃止さえ検討されたこともありました。
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それが最近になって、環境や人へのやさしさから市電が見直され、ついに、路線延伸と新車両の導入が決定!まずは「欠輪環状線」だった現行路線を2〜3年後にループ化。昭和48年(1973年)に廃止された駅前通の市電軌道が、40年ぶりに復活することになりました。

いま、札幌で最も熱い乗り物といえば「市電」です。

僕はこの感激を何とかして形にしたいと一念発起。そこで、明治時代に作られた日本一長い歌、「♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」の出だしで有名な「鉄道唱歌」(このブログでもおなじみですね!)になぞらえ、札幌市電沿線の風景や歴史をまとめた
「札幌市電唱歌」を作りました。

現在、市電が走るのは、札幌でも旧市街中の旧市街といわれるエリア。札幌の成り立ちが凝縮されています。古いものと新しいものとが混在する不思議な風景の中を、「札幌市電唱歌」と一緒に散歩に出かけましょう。

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和田哲 作「札幌市電唱歌」 

1 【西4丁目】 
4プラ前の十字街
雨音消えて 雪となり
西四丁目の電停で
乗り込む電車の暖かさ


■4丁目十字街 
市電の起点があるのは、4丁目プラザ、三越、パルコ、日之出ビルに囲まれたスクランブル交差点。
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メインストリート同士がクロスする、札幌で最も華やかな交差点です。昔は市電の軌道もここで交差していました。札幌の交差点には基本的に名前がないのですが、ここは古くから「十字街」と呼ばれていたそうです。最近はあまり聞きませんね。


2 【西4丁目】 
札幌開府(かいふ)の その初め
大友堀(おおどもぼり)と直交し
原野に引かれし この道ぞ
都市の基(もとい)と なりにけれ


■大友堀(創成川)と銭函道(南1条通) 
電車は、南1条通を西に向かいます。この道、現在は国道でも道道でもありませんが、札幌の建設が始まったころは、大動脈とも言えるとても重要な道路だったのです。
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江戸時代の終わり、幕府の役人として現在の東区に入植した大友亀太郎は、用水路「大友堀」を掘削しました。これが札幌に最初に引かれた南北方向の直線であり、後に創成川となりました。
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明治2年(1869年)に開拓判官として札幌の原野に入った島義勇は、この大友堀を札幌の都市計画の基準としました。銭函への曲がりくねった街道を整備、 札幌付近を東西の直線道路とし、大友堀と「直角」に交差させました。それが現在の南1条通の始まりです。そして、その直角交差点=創成橋こそが、札幌の 「碁盤の目」の最初の「一目」となったのです。
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3 【西4丁目】 
北に横たう 大通
ライラック咲く 春の午後
ビールに酔うは 夏の夜
雪の城建つ 冬の朝


■大通公園 
札幌にあって、日本の他都市にないもの、それが大通公園です。「広場」が都市の中心になっているのは、ヨーロッパの都市に似ていますよね。
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そもそもは、町人地(南側)の火事が官庁(北側)に延焼しないようにするための「火防線」として設置された、前代未聞の50間幅の道路でした。「分断」のために作られた場所が、いま人々の「交流の場」になっているというのは面白いことです。


4 【西8丁目】 
レトロとモダンが入り交じる
西八丁目を過ぎ行けば
サンキチさんと人の呼ぶ
三吉神社は右にあり


■かむほどに味が出る界隈 
4丁目から8丁目は、古い建物と新しい建物、デジタルとアナログ、カルチャーとサブカルチャー(?)が同じ場所で仲良くしているような、不思議な味わいの街です。


東急ハンズの2軒隣、築50年の古いビル。アート系のさまざまな人が集う活動拠点「OYOYO まち×アートセンターさっぽろ」では、僕もたくさんの人と出会うことができました。ほかに、古本とビールのお店(!)もあります。
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市電に乗る人ならきっと誰もが知る「人形屋佐吉」。

いつも閉まっている印象があるのですが、油断すると、たまに開いています。
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ところどころに残る「昭和」。
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「声」「声」「声」・・・の看板でおなじみの純喫茶「声」は、映画「探偵はBARにいる」のロケにも使われました。雰囲気ありますね!
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■サンキチさんが晴れなら札幌神社は雨 
西8丁目の電停からほど近い「三吉神社」。正しくは「ミヨシジンジャ」という名なのですが、市民は親しみを込めて「サンキチさん」と呼びます。
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5月15日が例大祭。境内にびっしりと露店が並びます。また、「サンキチさんが晴れなら札幌神社(北海道神宮)は雨」といわれ、ちょうど1ヶ月後の北海道神宮例大祭(札幌まつり)と「天候が真逆になる」というジンクスが、札幌っ子の間では昔から有名です。


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5 【中央区役所前】
 
円柱型のホテル建つ
区役所前からほど近く
ミュンヘン市との友情を
伝えるドイツのマイバウム


■マイバウム 
マイバウム(maibaum)は、ドイツ語で「5月の木」という意味で、高い木にさまざまな飾りを付けたもの。ドイツでは5月の祭りにマイバウムを飾り、その周りで歌や踊りを楽しむ慣わしがあります。


大通公園(11丁目)には、高さ25mの大きなマイバウムのモニュメントがあります。
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これは、オリンピックとビールが縁で姉妹都市になったミュンヘン市から寄贈されたもの。昭和51年(1976年)に設置され、古くなったため平成12年(2000年)に再建されました。


■現存する札幌最古の鉄筋コンクリート建築 
西13丁目でひときわ存在感を醸し出すのが、三誠ビル。
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大正13年(1924年)に建てられた、現存する札幌最古の鉄筋コンクリートの事務所ビルです。シンメトリーのデザインと、窓周りの細かい装飾が、重厚な雰囲気を醸し出しています。元々は旧薮商事の事務所でした。1階にはカフェ、2階にはゆっ たりできる古本屋さんが入居しています。


■ショッピング一条 
この建物の風格に、まずしびれます。
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この日、建物内はたまたまお休みでしたが、ちゃんと営業しています。ここはいわゆる「市場」。建物内部には、個人商店が並んでいます。スーパーマーケット が普及する以前には、よく見かけた店舗です。昔は「一条市場」と呼ばれ、あの「二条市場」に次ぐ歴史があるんだそうです。

6 【中央区役所前】 
真直ぐに見ゆる山肌に
大倉山の シャンツェあり
カンテの下に誇らしく
五輪マークは輝けり


■大倉山シャンツェが正面に 
電車が向かう正面やや右寄りに、大倉山シャンツェが見えます。
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夜はライトアップされるので、闇の中に浮かび上がって見えます。これほど都心から近いシャンツェは、世界的にも珍しいのだとか。


7 【西15丁目】 
円山行きと西線の
分岐も今はなけれども
曲がる軌道の周りには
医療機関の数多し


■円山行きと西線の分岐跡 
南1条西15丁目では、昭和48年(1973年)まで、西方向に直進する一条線(円山公園方面行き)と、南に曲がる山鼻西線とが分岐していました。歴史の 古い円山行きの方が「本線」、山鼻西線の方は「ローカル線」のような扱いだったのですが、その「本線」の方が先に消えてしまいました。


大正から昭和初期にかけて、市民の気軽な行楽地と言えば円山周辺でした。円山公園の桜、三角山でのスキー、界川にあった「札幌温泉」などに向かう乗客で、電車は満員だったといいます。


■病院城下町 
西15丁目周辺には、札幌医大病院、NTT札幌病院、中村記念病院を中心に、大小さまざまな医療機関が集積しています。
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さらに、調剤薬局はもちろんのこと、お見舞いの需要からかお菓子屋さんも多く、さながら「病院城下町」のようです。


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電車はここから左に曲がり、藻岩山の麓を目指して南下します。


今回はここまで!

「札幌市電唱歌」との散歩は、まだまだ続きます!

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2011年12月18日 (日)

最初は赤くなかった「テレビ塔」(札幌・大通)

札幌の「条」「丁目」のほぼ「原点」に立つ、テレビ塔。
都心を歩く市民は、腕時計ではなくテレビ塔の電光時計で時刻を確認するといわれています。
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高さ147.2m、展望台の高さは90m。
札幌駅のJRタワー展望室(160m)に比べると低いものの、眺めの美しさではテレビ塔に軍配!真正面にまっすぐ延びる大通公園と、シンメトリーな市街地の夜景はこたえられません。


■真っ白だったテレビ塔!?

そのテレビ塔の完成時の絵はがきを見たとき、僕は仰天しました。
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なんと、真っ白ではありませんか!?
これはカラー写真ではなく、白黒写真に手描きで着色したもの(当時よく使われていた手法)です。でも、テレビ塔の絵はがきでテレビ塔の色を塗り忘れたとは考えられず、実際、これに近い色をしていたことは間違いないのでしょう。

着色していない写真がこちら。
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札幌市文化資料室所蔵

白黒写真ですが、何となく白っぽい色をしていることはわかりますよね。


さっぽろテレビ塔関係者Sさんからの情報によると、完成当時のテレビ塔は「シルバーメタリック」色だったそうです。それを、後で述べる北国ならではの事情から、赤く塗り替えたのだとか。

ただ、塗り替えた時期がいつなのかについては、わかる人が社内にもいないとのこと。「札幌テレビ塔20年史」(北海道観光事業株式会社/昭和53年)にも、色の変化には一切触れられていません。

いったいいつ、どういう経緯があって「赤」に変わったのか、調べてみました。

■昭和32年、テレビ塔完成

50万都市・札幌にテレビ塔が完成したのは、昭和32年(1957年)8月。
実は、東京タワーよりも1年早かったのですね。
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札幌市文化資料室所蔵

開場前から長蛇の列を作って待っていた市民は、花火の合図とともにドッと入場しました。当時としてはとても斬新なガラス張りのエレベーターで、地上90mの展望台に昇り、初めて見る景観に驚いたり楽しんだり。「もう思い残すことはない」と涙を流すお年寄りもいたといいます。

その当時、展望台から見えたのはこんな風景でした。
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札幌市文化資料室所蔵
(開業当時の写真は使えないため、昭和36年の空撮写真)


大通公園の1・2丁目はまだなく、2丁目は北1/3が赤れんがの中央郵便局(後に北4西6に、さらに北6東1に移転)、南2/3は大通バスセンター(後に大通東1に移転)。今の市役所の位置には、中央創成小学校がありました。
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札幌市文化資料室所蔵
(こちらは開業時のテレビ塔から撮影)


高いビルがほとんどないので、かなり遠くまで見通すことができます。
塔部分がない道庁赤れんが庁舎(塔部分は昭和43年に復元)や、民衆駅に改築されたばかりで青いタイルを貼る前の札幌駅も見えます。

ちなみに、それまで、一般の人が入ることができる最も高い建物は、丸井今井デパート(一条館)の屋上だったそうです。


■実は名古屋にもある「テレビ塔」

実は、さっぽろテレビ塔にそっくりな塔が、名古屋に存在します。
それがこれ、名古屋テレビ塔です。
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さっぽろテレビ塔と同じ内藤多仲氏の設計。3年早く完成し、一回り大きな名古屋の塔は、いわばさっぽろテレビ塔の兄貴分。そっくりなのもうなずけます。

注目したいのがこの色、シルバーメタリックです。完成当時のさっぽろのテレビ塔は、これと同じ色だったのです。
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■「赤白塗装」の義務はまだなかった

昭和35年(1960年)に改正された「航空法」で、高さ60m以上の塔や煙突には「航空障害灯」を取り付け、昼までも目立つ赤白に塗装しなければならないことになりました。

とは言っても、テレビ塔はすでに3年前に完成済みだったため、この規定は適用されません。事実、同じく完成済みだった名古屋テレビ塔は、今でも完成時と同じシルバーメタリックのままです。また、東京タワーは義務化の2年前から赤白塗装でしたが、これは自主的にそうしたものです。

ではなぜ、名古屋のテレビ塔はシルバーのままで、さっぽろテレビ塔だけが赤く塗り替えたのでしょうか?


■札幌と名古屋の事情の違い

完成から3年後、昭和35年(1960年)のカラー写真。
1960

札幌市文化資料室所蔵

まだシルバーメタリック色のままですが、ところどころ、薄黒く汚れているのがわかりますか?

実はこの汚れ、石炭などの「煤煙(ばいえん)」なんです。
当時、燃料の主役は何と言っても石炭。冬になると一斉に暖房を焚くため、札幌の空は真っ黒な煤煙で覆われたといいます。煤煙は、建物の外壁や公園の彫刻にも大量に付着。それを水で洗い流す作業は、春先の風物詩だったそうです。

シルバーメタリック色では、やはり煤煙汚れが目立ち過ぎます。ひと冬ごとに薄黒くなってしまうテレビ塔の姿に、市民からも「汚い!」と苦情が寄せられてしまうほどでした。

煤煙が付着したテレビ塔の「ペンキ塗り」は春の恒例行事だったようで、「お化粧するテレビ塔−ひと冬のアカをためくすんだねずみ色が、ひとはけごとに明るい空色に染め変えられてゆく。」
[昭和37年(1962年)4月6日付 北海道新聞朝刊] などのように、毎年のように新聞記事になっています。

そしてもう一つ、航空関係者から「シルバーメタリックでは目立たない」という指導があったそうです。
吹雪の日には、シルバーメタリックの塔は「保護色」となり、ホワイトアウトで完全に見えなくなってしまいます。後で作られた法律は適用されないとはいえ、航空関係者からの指導はもっともな話。


「煤煙汚れ」「雪の中で目立たない」という、北国ならではの2つの事情が、札幌と名古屋の兄弟テレビ塔の運命を分けることになったのです。

■イメージ一新の狙いも?

オープンからの1年で100万人を記録した展望台入場者。しかし、2年後の昭和35年(1960年)度は約41万人と、大幅に落ち込んでしまいました。それに加えて、地下にあった劇場の賃貸料が思うように回収できず、売上不振の売店が撤退してしまうなどの事情もあって、テレビ塔は1億6千万円という、当時としては巨額の赤字を背負ってしまいます。

テレビ塔は「公共施設」だという立場で資金を出し、音頭をとって来た札幌市としても、これは見逃せない事態。さっそくテコ入れに乗り出し、昭和36年(1961年)5月の株主総会で経営陣が交代しました。

その後、松下電器から贈られた電光時計(広告看板設置が市の許可を受けられなかったため、『松下電器が時計を市に寄贈する』という形を取った)を設置したり、塔の周りを花や噴水で飾るなどの努力により、人気は何とか回復。昭和37年8月24日の北海道新聞には「どうやら危機を脱す〜赤字に悩んだテレビ塔〜」という記事が掲載されています。

実は、テレビ塔の色が赤に変わったのは、その9ヶ月後のこと。このあたりの経緯や時期から考えて、先に挙げた
「煤煙」「雪」のほかに、「イメージ一新」という狙いも、もしかするとあったのではないでしょうか?

■昭和38年、シルバーから赤(コッパーローズ)に変身


かくして、札幌のテレビ塔はついに色を塗り替えることになりました。
新しい色は、展望台入場者へのアンケート(抽選で東京タワーに招待)により、
コッパーローズ(薄朱色)に決定。

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あえて東京タワーのような「真っ赤」ではなく、雪の中でも目立ち、風景にも馴染む色ということで選ばれたそうです。
昭和38年(1963年)4月からペンキを塗り始め、6月に完了。現在の「赤いテレビ塔」が誕生しました。

足場組みに毎日40人がかりで20日、ペンキ塗りには30人がかりで1ヶ月、費用は当時の金額で約700万円(この年、銀行員の初任給は月12,500円くらい)という記録が、新聞に残されています。

塗り替え直後と思われる写真。かつて「東洋一の高さ」といわれた消防望楼(昭和40年に解体)と「赤いテレビ塔」が共存した期間はわずか1年半なので、とてもレアな写真です。実はこの写真こそが、赤く塗り替えた時期を特定する一つの手がかりになりました。
1963_3  

札幌市文化資料室所蔵

シルバーメタリックのテレビ塔を見慣れていた札幌っ子たちは、「赤いテレビ塔」にさぞびっくりしただろうと思うのですが、当時の新聞を隅々まで読んでも、そのような記事は見つかりませんでした。
そのころ、毎日市電で大通公園を横断していた母は、赤くなったテレビ塔に驚いた記憶があるそうです。


■これからのテレビ塔に似合う色は?

その後、何度かの塗り替えを経たテレビ塔。
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現在は法律が改正され、「高光度航空障害灯」さえ設置すれば、高さ60m以上の鉄塔でも赤白塗装の義務はなくなりました。そういえば、建設中の東京スカイツリーも真っ白ですよね。

煤煙も、スパイクタイヤの車紛もなくなった今、テレビ塔はかつてのシルバーメタリックに、いや、むしろ真っ白にしてもいいのではないか、と思います。
Photo_14

札幌の雪景色にぴったりだと思うのですが、どうでしょう?



【参考資料】
北海道観光事業株式会社編:「札幌テレビ塔20年史」/昭和53年
札幌市教育委員会編:「さっぽろ文庫32・大通公園」
カラー名称とカラーコード表示の比較一覧【CXMedia】
北海道新聞:昭和33年12月9日、昭和35年9月27日、昭和36年6月4日、7月8日、9月4日、9月21日、昭和37年4月6日、5月29日、7月13日、8月24日、昭和38年5月18日、昭和39年1月20日、昭和44年7月18日
ほか

※2012年1月6日追記

テレビ塔、本当に色変更が検討されることになりました。

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北海道新聞 平成24年(2012年)1月4日朝刊

しかも、市民から新たな色を公募することに!札幌のイメージや風景に馴染む色にしたいですよね。

ところで、この記事の中で、鉄塔の色が現在の赤色になったのは昭和44年(1969年)ということになっています。上の方で書いたとおり、シルバーから赤になったのは昭和38年(1963年)であり、道新の記事は間違いではないか、と新聞社に問い合わせをしたところ、回答をいただきました。

■昭和44年、赤色の色味を「クラウディレッド」に変更

昭和38年(1963年)にシルバーから赤色「コッパーローズ」に塗り替えられたテレビ塔は、6年後の補修時期に合わせ、赤色の色味を微妙に変えました。それが、現在のテレビ塔の色「クラウディレッド」です。「コッパーブルー」よりもやや濃いめの赤色です。昭和44年(1969年)の4月に塗装を始め、7月に完了しています。

ややこしいのですが、シルバーから赤になったのは昭和38年(1963年)赤は赤でも現在の色味になったのが昭和44年(1969年)、というわけです。もし来年、赤以外の色に変わるとすれば、「色が変わる」のは44年ぶり、「赤以外の色になる」のは50年ぶり、ということになります。

はてさて、テレビ塔は何色に染まるのでしょうか?

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2011年10月30日 (日)

碁盤の目の「角度」(札幌・山鼻)

数学の「座標平面」の授業で、先生がこんなことを言いました。
「x軸は大通、y軸は創成川、原点はテレビ塔の辺りだと思えばいい」
札幌っ子にとって、これほどわかりやすい例えが他にあるでしょうか。

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札幌の中心市街地は、直線道路が等間隔で直角にクロスする、いわゆる「碁盤の目」のような都市計画で知られています。南北の軸は大通で、南39条から北51条まで約14km。東西の軸は創成川で、東30丁目から西29丁目まで約8kmという、巨大な「座標平面」です。

しかし、地図をよく見ると、南3〜6条を境に、北(都心部)と南(山鼻地区)で区画が微妙にずれているのがわかりますか?わかりやすく色分けしてみました。
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赤く塗った道路は都心部、青く塗った道路は山鼻地区。
正確な東西南北の方位に対して、都心部は反時計回りに約9度、山鼻地区は同じく約5度傾いています。どちらも、「南○条西○丁目」という「座標平面」の住所が、とくに区別することなく割り振られています。

すすきのの“深いところ”で飲んだことがある方は、この碁盤の目の乱れを経験的にご存知なのではないでしょうか?

今回は、僕がいつも地図を見るたびにじれったくて身悶えしてしまう、何ともアズマシクない(落ち着かない)この微妙な「角度のずれ」を楽しんでみたいと思います。

■都心部の「角度」を決めた「大友堀」

札幌がまだ原野だったころ、一番最初に引かれた「直線」は「大友堀」でした。
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幕末の慶応2年(1866年)に、幕府の開拓御用を命じられて、現在の札幌市東区に移住した大友亀太郎が、飲み水や水運を確保するために引いた用水路が「大友堀」。これが後に「創成川」と呼ばれ、札幌都心部の街路の基準になります。

どうやら亀太郎は、特に南北の方角を意識したわけではなく、あくまで自然の傾斜に合わせて掘ったようです。

明治2年(1869年)の地図(右が北)を見ると、何もない原野の中に、唯一の直線である大友堀が確認できます。
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ちょうどその年、函館に代わる新しい本府を建設するために札幌原野に派遣されたのが、有名な島義勇判官。彼はまず、すでにあった大友堀の東岸に、南北方向の短い道路を1本造りました。さらに、銭函から札幌経由で千歳方面へ通じる、曲がりくねっていた踏み分け道を整備し、大友堀と直角に、直線でクロスさせました。こうして、創成橋を交点とする十字形の直線道路が、札幌の原野の中に誕生しました。
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さらに島判官は、この十字路を基礎として、まるで平安京のような整然とした「人工都市」をゼロから建設するという、壮大なビジョンをぶち上げます。

島判官の明確なビジョンとリーダーシップのもと、札幌の都市建設がいよいよスタート・・・となるはずだったのですが、事態は急変。島判官は、予算の使い過ぎや独断専行ぶりを問題視され、志半ばで解任、札幌の都市建設は凍結されてしまったのです。

結局、「札幌本府」は大友堀と、縦横1本ずつの直線道路だけを残した状態でストップ。開拓使は方針を変更し、都市よりも周辺の農村の開墾を優先することになりました。


■山鼻の「角度」を決めた「ハッタリベツ新道」

明治3年(1870年)、京都の東本願寺が政府に願い出た、札幌への管刹所(寺)建立と札幌〜虻田間の道路開発について、許可が与えられました。

形の上では東本願寺が自ら志願して、政府がそれを許可したことになっています。しかし実際には、私費での道路開発を「志願」するよう、政府サイドから東本願寺に対して「圧力」があったと言われています。

島判官の「浪費」のせいですっかり財政難になってしまった開拓使にとって、寺院がわざわざ巨額の私費で道路を造ってくれるというのは、いくら何でも都合が良すぎる話ですよね。実は東本願寺には、幕末の動乱時に薩長側ではなく幕府側の味方をしたという負い目がありました。そのため、たとえ無理難題であっても新政府の「意向」には逆らえなかったわけです。

かくして、19歳の大谷光瑩(現如上人)を中心とする東本願寺の一行は、途中、越後国で資金集めをしながら、7月になって札幌に到着しました。創成橋の南西1.2kmの原野の中(現在の南7条西7・8丁目)に管刹所を建立。さっそく道路建設に取りかかります。

このとき造られたのは、平岸から定山渓、中山峠を越えて虻田方面に通じる道路(現在の平岸街道と国道230号線の原型)など、「本願寺道路」と呼ばれる4本の道路。僧侶たちや周辺の移民、たくさんのアイヌの人たちの手によって、わずか1年で完成させました。

その4本の中の1本が、札幌とハッタリベツ(現在の北ノ沢・中ノ沢・南沢)を結ぶ6kmの道路「ハッタリベツ新道」。島判官が残した「銭函道」(現在の南1条通)から一直線に南下し、藻岩山の尾根の終端「軍艦岬」を回り込んで山に入っていくこの道が、後に「石山通(国道230号線)」と呼ばれ、山鼻地区の街路の基準となるのです。北の終点・銭函通には、直角ではなく、約4度傾いて接続されました。
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■「空白の2年」が生んだ、角度のずれ

ハッタリベツ新道の直線は、ほぼ正確に磁北(真北とは約5度のずれがある)を向いています。しかし、意図してそうなったのか、地形や障害物を避けた結果なのか、はっきりとした史料は見つかっていないそうです。
東本願寺による道路開発についての数多くの史料は、「大変な困難を乗り越えた」という美文調の英雄潭には何ページも割いているのですが、「角度がこうなった理由」についての記述は見つけることができませんでした。

ただ一つ言えることは、ハッタリベツ新道が建設された当時、札幌本府を「碁盤の目」にする都市計画はまだ決まっていなかった、ということです。

時系列で確認してみます。


 慶応2年(1866年)09月:大友堀(創成川)ができる
 明治2年(1869年)10月:島判官の都市計画構想
 明治3年(1870年)02月:島判官失脚/都市計画中止
 明治3年(1870年)09月:東本願寺が道路を建設
 明治3年(1870年)11月:札幌都市計画の再検討
 明治4年(1871年)05月:開拓顧問ケプロンが来道/同年、札幌建設を本格的に再開


つまり、島判官とケプロンという、北海道開拓の2大プロデューサーが不在だった「空白の2年」に、ハッタリベツ新道が造られた、ということになります。もし2人のどちらかがいたならば、開拓の基本ともいえる主要道路の開発を寺院に「丸投げ」するようなことはなかったでしょう。また、都市の将来の広がりを見越し、ハッタリベツ新道は札幌本府と同じ角度で設計したはずです。

140年後の今も残る「角度のずれ」は、開拓初期の「空白の2年」の産物である、という見方もできるのではないでしょうか?


■札幌本府と山鼻地区のその後

明治6年(1873年)の地図です。
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札幌本府の「碁盤の目」の都市建設は順調に進んでいます。大通にはまだ公園がなく、幅105mもある広い街路でした。南4〜5条、西3〜4丁目の4ブロックは塀で囲まれています。これが「薄野(すすきの)遊郭」です。

一方、東本願寺周辺はまだ市街地化されていませんが、ハッタリベツ新道の左右に新たな区画が生まれています。これは「山鼻屯田兵村」だと思われます。対ロシア防衛軍と開拓団を兼ねた集団移民「屯田兵」制度ができたのは明治7年(1874年)なので、この地図には後から書き加えられたものです。

その18年後、明治24年(1891年)の地図がこちら。
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二つの市街地はやがてぶつかり、複雑に食い違う街路は苦心して繋ぎ合わせられ、現在の札幌が形作られました。


■「角度の変わり目」を歩いてみる

南4条西18丁目の角にあるヴィクトリア。ここが、山鼻角度のエリアの北西の端です。
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ここから東に向かって歩いてみましょう。
南3条通(山鼻角度)を境に、北側が都心角度、南側が山鼻角度。
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市電山鼻西線の軌道は、ずれを繋ぎ合わせる斜め通りの上に敷かれています。
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境界線の南3条通そのものもまた、途中から都心角度に変化します。
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この通りにある鍋焼きうどんの専門店、詩仙洞。つい先週、友人の渡辺君に教わりました。メニューは鍋焼きうどんだけですが、絶品です。
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島判官が造った「銭函道」と東本願寺が造った「ハッタリベツ新道」の接点は、南1条西10丁目、現在は市電の「中央区役所前」電停がある交差点です。現在、石山通は拡幅され、南1条通に接する部分は都心部の角度に変わっていますが、オリンピック以前は山鼻の角度のまま接している、変形交差点でした。
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そこから少し西側に、今も山鼻角度のまま南1条通に接している道が1本だけありました。西屯田通です。気持ちいいほどまっすぐに伸びる道を見通すことができます。
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西8丁目以東の境界線は、東本願寺のある南7条に移ります。
幅の広い南4条通は、西8丁目で角度を変えているのがわかります。
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ここが東本願寺。現在の正式名称は「真宗大谷派札幌別院」。
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何もない原野だった時代に建てられただけあって、広い敷地です。山門には「勅賜 東本願寺管刹地所/明治三年庚午七月」の石碑があります。

寺の北西角は、都心角度と山鼻角度のわかりやすい接点です。
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余談ですが、「えびそば一幻」はすぐそこ、東屯田通にあります。

市電山鼻線は、都心角度→つなぎ道路→山鼻角度の順に、逆S字カーブを描いて走行しています。子供のころ、ここを電車で通過するたびに、札幌の街路は「碁盤の目」だと教えられたことと、目の前にある現実の風景との矛盾に、僕は身悶えするような違和感を感じたものです。
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一気に南下して、石山通(旧ハッタリベツ新道)の直線部の南端、軍艦岬です。
「岬」といっても海があるわけではなく、藻岩山の尾根が南西部に突き出た部分。この崖を遠くから見ると軍艦の舳先のように見えたため、地元では昔から「軍艦岬」と呼んでいます。
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この崖と川に挟まれた難所を越えると、ハッタリベツ新道は右に折れ、地形に沿ってクネクネと進みます。
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ちなみに、曲がらずにまっすぐ伸びている細い道は旧道ではありません。札幌軟石を輸送する目的で明治9年(1876年)に新設された、石山方面への「直線馬車道」です。ハッタリベツ新道は山道なので馬車が通行できなかったのですね。直線馬車道は豊平川を渡し船で渡り、そのまま真駒内をまっすぐに伸びていました。その真駒内側の道が、現在の「真駒内通」(国道453号線)です。

どうにもアズマシクなかった「角度のずれ」ですが、歴史を知ると、何か愛着のようなものが湧いて来るものですね。


【参考資料】
札幌市編:「新札幌市史(第2巻通史2)」
札幌市編:「新札幌市史(第7巻史料2)」
札幌市教育委員会編:「さっぽろ文庫別冊・札幌歴史地図(明治編)」
北海道新聞社編:「星霜-北海道史1868-1945ー(第1巻明治1)」
若林功:「北海道開拓秘録」(時事通信社)
(社)札幌建築士会札幌支部webサイト「札幌古地名」
山鼻創基八十一周年記念会編:「山鼻創基八十一周年記念誌」/昭和32年
幌西史誌編集委員会編:「幌西史誌」/平成15年
藻岩開基百年記念事業協賛会編:「さっぽろ藻岩郷土史 八垂別」/昭和57年
藻岩下連合町内会編:「郷土史藻岩下」/平成15年
ほか

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2011年7月24日 (日)

「札幌温泉」-元祖リゾート開発の夢の跡(札幌・界川)

ここ数年の間に、札幌にも温泉やスーパー銭湯がずいぶん増えました。
でも、旭山記念公園のすぐ近くに、大正から昭和初期のわずか数年間だけ存在した「温泉」があったことをご存知ですか?

それが、これ。その名も「札幌温泉」です。
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場所は、旭山記念公園の駐車場に向かう、南9条通(旭山公園通)沿いの界川地区。児童養護施設「南藻園」がある辺りです。前回のスキー場の記事でご紹介した、先輩のIさんと一緒に現地に行ってみました。

上の写真を細かく見てみましょう。背後の山の稜線から、上の写真はこの方向を撮影していると推測されます。
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南藻園のグラウンドが一段高くなっている辺りに、温泉の建物があったのではないでしょうか?

近づいてみると、古いコンクリートの残骸が残っています。
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また、古そうな切り株を発見。位置関係から考えて、古い写真の建物の右手にある樹木かも知れません。
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地図で表すと、このようになります。
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今回はこの「札幌温泉」の、とても夢のある計画と、残念な結末のお話です。

■夢の温泉開発プロジェクト

大正10年(1921年)ごろ、立憲政友会の代議士であり、十勝で牧場を経営していた高倉安次郎らが発起人となり、札幌郡円山村(現:札幌市中央区)の界川地区に、温泉を中心とした別荘地開発・宅地開発をはじめとする大規模な開発プロジェクトを立ち上げました。

ところが、まだ掘削技術が未熟だったため、現地で温泉を掘り当てることはできず、何と、30km以上離れた定山渓温泉から、パイプラインで湯を引き、それを再度沸かすという、現在では考えられない方法がとられました。

ともあれ、大正15年(1926年)5月9日、「札幌温泉」がオープン。豪華な洋風の鉄筋コンクリート2階建ての温泉施設は、当時の札幌っ子を驚かせました。
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札幌市街を一望できる展望バルコニーが設けられ、人気を博したといいます。
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食事処や宿泊設備、300人の宴会が可能な大宴会場を完備。また、子どものためにミニ動物園を設け、ヒグマも飼育していました。
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館内は和風で豪華絢爛。現在の温泉施設にもよく似ています。
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当時のパンフレット。
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現在の温泉と変わらないサービスもあれば、時代を感じさせるサービスもあって面白いです。「定山渓よりも近い温泉」というもの珍しさも手伝って、多くの市民が押し寄せました。

■「温泉電車」の敷設

市内から近いとはいっても、最も近い市電停留場から2km以上離れていたため、札幌温泉では独自に路面電車を敷設することを計画。そのための会社「札幌温泉電気軌道」を設立し、札幌市電「円山3丁目」電停と札幌温泉とを結ぶ2.2kmの路面電車の敷設特許を取得、昭和4年(1929年)6月末に運行を開始しました。電車2両を導入し、単線の路線をピストン輸送していたものと思われます。

その路線図を、現代の地図に書き入れてみました。
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大きな道路を通らずに無駄にクネクネとした路線に見えますが、この辺りの大きな道路が建設されるのはずっと後、札幌オリンピック直前のことです。

しかし、終点の「温泉下」電停は、温泉から微妙に離れた場所にあり、電車を降りた客は、約400m、高低差30mの急な坂道を歩かなければなりませんでした。札幌温泉電気軌道の車両は35kw級のモーター2個を装備しており、当時の札幌市電の最新車両(18kw級モーター)に比べて馬力があったとはいえ、この最後の急坂を登らせるのは技術的に難しかったのでしょう。さらに、除雪車両を持っていなかったため、冬は電車を動かせず、馬そりで乗客を運んだそうです。

初年度は約6万7千人の運輸実績(当時の札幌市の人口は13万人)をあげ、札幌温泉はさらに大繁盛。お客さんからもらうご祝儀で、仲居さんの着物は膨らんでいたといわれています。勢いに乗った札幌温泉の幹部は、もっと利用客を増やそうと、電気軌道を琴似駅や山鼻方面に延伸することを計画。さらにはロープウェイの開発計画まで打ち出したのでした。

もし、これらが実現していたら、山鼻や藻岩地区は、現在とは違う発展の仕方をしていたかも・・・。そんな空想をすると、何だかワクワクしませんか?

■「温泉電車」の路線跡を歩く

その「札幌温泉電気軌道」の路線跡を、先輩のIさんと一緒に歩いてみました。
「札幌温泉」跡地から、坂道を400mほど下った交差点が、「温泉下」電停跡。ここで電車を降り、温泉まで歩くのは、高齢者にはかなり厳しかったと思います。
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坂道を下り、啓明中学校のところが「南九条」電停。ここで、斜め左に入ります。「斜め」なのは、実は9条通の方であって、この南北の通り(西26丁目通)の角度は、札幌都心の南北の街路と同じです。
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環状通と西25丁目通が分岐する賑やかな交差点が「南八条」電停。当時は環状通などなく、もっとのどかだったはずです。
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電車は「南七条」電停で左折し、旧琴似街道に入ります。
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すぐに旧琴似街道と別れ、現在のパールモンドール前にあった「南六条」電停からは、まっすぐ北に向かいます。
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電車通の面影がまったくない「南三条」電停跡。中島みゆきさんの歌に出て来るのは、この付近でしょうか?
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そして、大通にぶつかるところが終点の「南一条」電停。目の前を、札幌市電の一条線が走っており、この交差点に「円山三丁目」電停がありました。左が円山公園方面、右が三越前方面です。
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電車が存在した期間があまりに短かったため、全線を通じて、沿線が電車によって「街」として成熟した形跡はまったくありませんでした。なぜ、短期間で消えてしまったのか、再び「札幌温泉」のお話に戻ります。

■早くも狂い始めた計画

温泉が大繁盛している一方で、肝心の宅地開発や別荘分譲の方は人気が今ひとつでした。単線で、しかも冬には運休してしまうような電車では、日常生活のアクセスとしては不便だったのです。しかも、そもそも当時の札幌には、リゾート地に別荘を買うような富裕層はほとんどいませんでした。

当初の「温泉を中心とした宅地開発」という目論みは、どうもうまくいかなかったようです。
そして、予想外の出来事が追い討ちをかけます。

■「温泉電車」の悲運

札幌温泉電気軌道開業の翌年の昭和5年(1930年)、漏電による火災で、電車の電力を供給していた変電所が全焼。電車を動かすことができなくなってしまったのです。

そこで、札幌温泉側は札幌市に相談。札幌市電の架線から電力供給を受けて、社名を「札幌郊外電気軌道」と改め、何とか営業を再開しました。ところが今度は、札幌市への料金支払いが続かず、給電を止められる事態となりました。このため、ガソリンエンジンで動く34人乗りの車両1両を代理店から借り入れて導入。変電所復旧までの期限付きで、ガソリン動車の使用認可を得て運行を再開しました。

しかも、このガソリン動車を貸した「代理店」を経営していたのは、当時の札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)の社長で、明らかに法外な値段で貸し付けていました。どうも、怪しい臭いがしてきましたね。

結局、ガソリン動車を「代理店」から借り続ける限り、社長の懐に金が入る仕組みになっており、焼失した変電所を復旧する気はゼロだったようです。

また、ガソリン動車のエンジンは、それまでの電車のモーターに比べて力が弱い上、ブレーキがハンドブレーキ一つだったことから、鉄道省からは、界川地区の勾配区間での運行は不適切と判断されてしまいます。そのため、途中までの平坦区間に限っての運行許可が出されますが、札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)はこれを無視。強引に全区間を走らせていました。

1両のみで予備車がなかったこともあり、もともと運休していた冬季のほかにも、車両故障や検査のために無断で運休することが少なくありませんでした。

■ついに尽きた「札幌温泉」の命運

不運はさらに重なります。世界的な金融恐慌の嵐が吹き荒れ、日本は空前の不景気に突入。札幌温泉の客は激減し、別荘地開発も完全に失敗。札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)の乗客も減少しました。この間、定山渓鉄道が電化され、定山渓までの所要時間が短縮したことも、札幌温泉の人気低下に拍車をかけました。

悪いことは重なるもの。同じ年、定山渓温泉から湯を引いていたパイプラインが損傷し、札幌温泉は開業わずか4年目にして、「お湯が出ない」という最悪の事態に陥ります。すでに修理費用も捻出できないことから、間もなく廃業に追い込まれました。

温泉廃業後も、札幌郊外電気軌道(旧・札幌温泉電気軌道)はしばらく営業を継続していました。しかし、温泉客がいなくなったことに加え、開拓目的の鉄道ではないことから北海道拓殖鉄道補助を受けることもできず、経営状態はみるみる悪化。3年後には無許可のまま運休状態となり、最終的には、そのことで鉄道省から特許を剥奪されるという不名誉な結末を迎えてしまいました。

■その後

こうして、時代を先取りし過ぎた温泉リゾート開発の夢は、わずか数年で終わってしまいました。
札幌温泉のあった辺りはいつしか「温泉山」と呼ばれ、建物の廃墟は、戦後まで残っていました。昭和28年(1953年)になって、跡地が鉄道弘済会に売却され、建物はようやく解体。児童養護施設「南藻園」が建設されました。
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いま、かつての温泉の賑わいや騒動など何もなかったかのように、静かな住宅街となっている界川地区。時代の流れを見守って来た古いコンクリート土台や切り株は、60年後のバブルとその崩壊を、苦笑いしながら見ていたのかも知れません。

【参考資料】
Webサイト「北海道の産業遺産」「Wikipedia」「北海道建築士会札幌支部」「札幌古地名」「絵葉書の世界」
ニコニコ動画「【迷列車】温泉〜無謀のルーツ【札幌編】」
札幌市教育委員会編:さっぽろ文庫22「市電物語」
札幌LRTの会編:「札幌市電の走った街今昔」(JTBキャンブックス)
日本鉄道旅行地図帳編集部編:「日本鉄道旅行歴史地図帳1号・北海道」(新潮社)
ほか

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2011年7月17日 (日)

進駐軍専用スキー場跡(札幌・藻岩山)

札幌の都心を見下ろす、藻岩山。
「藻岩山スキー場」は、札幌っ子なら一度は滑るホームゲレンデです。

現在のスキー場が造られる前、北側(都心方向)の斜面に、「進駐軍専用スキー場」があったことをご存知ですか?

■「クリスマスまでにスキー場を造れ」

戦後間もない昭和21年(1946年)の秋、進駐軍は北海道に対し、藻岩山へのスキー場建設を命令しました。担当のウォースレーヤ大佐は「クリスマスまでに完成させなければ、沖縄で重労働だ!」と言ったとか言わないとか。

当時すでに天然記念物に指定されていた藻岩山。その季節ごとの美しさは、札幌市民の自慢でもありました。それを伐採して自分たち専用のスキー場を造らせろとは、いくら戦勝国とはいえ、あんまりです。当然、日本側としては事情を説明してやんわりと拒絶するのですが、「保安林の伐採を最小限にする」という譲歩を引き出すのが精一杯。スキー場建設はすぐに開始されました。このときに設計・監督を務めたのは、後に北海道知事になる堂垣内尚弘さんだったそうです。

これが、「進駐軍専用スキー場」の全体図です。
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藻岩山山頂と、下の方にある「貯水槽(現在の水道記念館)」を目印に、現在の地図に重ね合わせてみました。
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山頂から、都心の方向に一気に滑り降りるコースだったようです。N43°などのお洒落なレストランが建ち並ぶあたりに、スキー場のベースがあったことがわかります。20m級のシャンツェまであります。
ロッジに「将校用」「下士官用」があるのが面白いですね。

■日本最初のリフト

このスキー場で重要なことは、なんと、日本最初のスキーリフトが架設されたことです。上の図で「第1スキートウ」「第2スキートウ」とあるのが、リフトです。このようなものだったようです。
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同時期に、長野県の志賀高原にも進駐軍用スキー場が造られ、リフトが架設されており、札幌だけが最初、というわけではありません。
記録によると、第1スキートウは高低差164m、長さ983m、2人乗りの搬器が44個設置され、1時間当たり100人の輸送能力があったといいます。支柱は、鉄材不足により木製でした。

その「第1スキートウ」の降り場が、コンクリート製の台座だけ現存しています。
藻岩山の登山道の途中にあるその台座。最初に就職した職場の先輩Iさんとお酒を飲んだ際に「一緒に見に行こう!」という話で盛り上がり、6月のある日、ついに決行することになりました。

■リフト跡へ探検開始

その日、Iさんも僕も自転車で、慈恵会登山口近くのセイコーマートで落ち合いました。
飲み物や虫除けスプレーを購入し、登山口へ。リフト跡までわずか1kmあまりの往復ですが、念のため(?)、登山口のお地蔵様に道中の安全を祈願します。
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登山口の駐車場はなんと満車。登山道を大勢の人が歩いているのが見えます。

ちなみに、藻岩山の登山道には33のお地蔵様があります。
一つ一つが、西国三十三観音霊場のお寺を表していて、本家のお寺と同じ御詠歌が刻まれています。山頂まで登れば、三十三霊場の巡礼と同じご利益があると言い伝えられています。
現代の登山者にとっては、「第17番まで来たから、あと半分だ!」というような、道程の目安として親しまれています。

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第1番 【青岸渡寺】
補陀洛(ふだらく)や 岸うつ波は三熊野(みくまの)の
那智のお山にひびく滝つ瀬

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第3番 【粉河寺】
父母(ちちはは)の 恵みも深き粉河寺(こかはでら)
仏の誓ひ頼もしの身や

スキー場造成で、これらのお地蔵様が壊されなかったことは、不幸中の幸いでした。

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登山といっても、藻岩山の登山道はとてもきれいに整備され、登り初めなどは、山というよりも「公園」のようです。
登山道の周りは、手付かずのままの自然が残されています。生活の場からこんなに近くに、これほど豊かな森があることを、札幌っ子はもっと誇りに思っていいような気がします。

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すぐ下にある僕の母校「旭丘高校」で、応援団の練習をしている声が聞こえて来ます。実は僕も、高校時代は応援団員でした。「あの掛け声のとき、手足は確かこんな動きだったな」と、応援のマネゴトをする余裕がまだありました。

しかし、あっという間に余裕は消え去りました。次第に無口になり、何度も足が止まり、Iさんをお待たせすることが多くなって来ました。

■コンクリート台座に到着

子供のころ、学校の遠足で何度も登頂したはずなのですが、39歳・103kgの身体は悲鳴を上げ、膝はもう「大笑い」しています。
いよいよ限界に近づいた頃、やっと目的の場所に到着しました。

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登山客の間で通称「休憩所」「砲台跡」などとこ呼ばれているのコンクリートの構造物こそ、日本最初のスキーリフトの降り場の跡です。

台座から少し離れて、大きな金具が付いた壁があります。

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ここからコースが始まっていたはずです。よく見ると、頭上は周囲の木々の枝で覆われているものの、コースだったあたりは笹薮で、大きな樹木はありません。

登山客の多くはここで最初の休憩をとっているようです。
家族連れやカップルが、「ここは戦争中の砲台跡だ」などと話しているのが聞こえます。

藻岩山に高射砲が設置されていてもおかしくはないので、「ここに砲台があった」というのもあながち間違いとは言えないのかも知れません。でも、目の前のコンクリート台座は、設計者もはっきりしており、誰が何と言おうとリフト降り場であることは確かです。

■ここにスキー場を造った「もう一つの目的」は?

ここでIさんと話し合ったのは、進駐軍がここにわざわざスキー場を造らせた「もう一つの目的」についてでした。
藻岩山は、札幌を一望できる観光地として有名です。このことは、見方を変えれば、軍事的に重要な拠点だということにもなります。もし、進駐軍への反抗を試みるテロリストがこの山中に潜んだとしたら、進駐軍側にはとても厄介なことです。つまり、藻岩山そのものを進駐軍が「制圧」するための拠点として、道庁と摩擦を起こしてまでスキー場を造らせたのではないか、という結論にいたりました。まあ、想像の域を出ないのですが・・・。

同行のIさんは、このまま山頂まで行きたいというオーラを発しています。でも、僕は情けないことに、すでに体力の限界です。Iさんごめんなさい!と思いつつ、頑として下山させていただきました。次回こそは・・・頑張って登ります!

下山途中にも、かなり多くの人とすれ違いました。藻岩山登山がこれほどの人気だとは驚きです。

■進駐軍専用スキー場、その後

「進駐軍専用スキー場」は、進駐軍撤退後「札幌スキー場」と名を変え、競技会などで使用されました。昭和33年(1958年)のスキー国体の会場となったのを最後に使用が禁止され、裏側の斜面に新設された現在の「藻岩山スキー場」にバトンタッチしたのでした。

廃止6年後の昭和36年(1961年)の航空写真です。

1961

まだ、スキーコースやリフト降り場がはっきりと確認できます。

こちらは、平成20年(2008年)の航空写真。

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つくづく、自然の回復力は偉大だと思います。上空から見る限り、どこにスキーコースがあったのか、もうまったくわかりません。
ただ、山頂からロープウェイ山頂駅付近までの直線部分だけは、旧「進駐軍専用スキー場」の中で唯一、その後も存続したコースで、平成17年(2005年)まで「藻岩山スキー場」の「山頂コース」として転用されていました。この新しい航空写真にも、はっきり残っています。

それにしても、登山者たちから誤解されまくっているあのコンクリート台座。
日本で最初のスキーリフトの跡として、説明板のようなものを市で設置できないか、と思います。

【参考資料】
コンサルタンツ北海道 第112号:道路情報館 真田英夫氏「堂垣内尚弘先生の足跡を訪ねて(ii)-札幌スキー場の建設-」
北海タイムス:昭和33年(1958年)3月2日
ほか

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